2017.02.01 | Comments(0) | Trackback(0) | カテゴリ剣舞

川西大念仏剣舞 入剣舞、押込、三人怒者

さて本日は、前沢郷土芸能祭から特別出演で、お隣衣川区の川西大念仏剣舞です。

川西念仏剣舞の由来についてです。

「藤原清衡公が江刺の豊田館から衣川を越えて平泉に入り柳の御所造営していたころ、夜な夜な亡魂が物の怪となって世の中を荒しまわり、人々を恐れおののかせ惑わせました。清衡公は、これはどういうことかと、中尊寺のお坊様に相談しました。お坊様は「これは、過ぐる前九年・後三年の合戦において非業の最後を遂げた人たちが、成仏しきれずこの世をさまよっているものです。刀や弓で収められるものではなく、お釈迦様のお力で鎮めるしかありません」と語りました。清衡公は早速、山王権現に七日七夜のおこもりをしました。満願の日に一匹の猿公が現れ、荒れ狂う亡魂の中に混じり、猫間が淵(柳の御所と無量光院の間)に沈めていきました。御仏が猿の姿に身を変えて亡魂たちを浄土へと導いたのだと気づいた清衡公は、このことに感激し、家来の佐野弥左衛門に命じて、この様子を模し、創らせたのが川西大念仏剣舞です。なお、剣舞を創った佐野弥左衛門は、金色堂前の一角に葬られ、その墓は現在も剣舞塚として語り継がれています。」

ということです。

現在の代表は伊藤敏男さんです。.



大正14年に平泉村の小野寺亀造が発行した「平泉剣ばい」によると佐野剣舞が平泉剣舞の原初としているが、佐野剣舞がどのようなものであったかは不明。その佐野剣舞の流れを組むのが川西大念仏剣舞とある。

舞手は本来は十三仏に因んで十三人であったというが、現在は八人で踊る。
その構成は、鳥毛の采に阿吽のイカモノ面を付けた六人(正足、正足クズシ、押込、押込クズシ、矢車、魔王)であり、これらのイカモノが一人で舞う演目名も押込などの名前がついている。
それに鳥兜に女面を付けたワカドと、猿面を付けたサルコである。


演目の主となるものは、やはり大念仏舞であり、これには入り剣舞、中剣舞、引き剣舞という構成になっていて、八人で踊る。
これは、荒れ狂うイカモノ(亡者)達をサルコが念仏踊りを舞いながら一人ずつ折伏していく様を表している。

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続いて一人舞の演目。

この日は代表的で山伏の祈祷舞のような「押込(オッコミ)」である。
押込の所作には、野獣のような少し道化けた所作が観られるが、これについて小形信夫は「念仏剣舞」の中で壬生大念仏狂言の人形振りに相似しているという。


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最後に三人イカモノです。
一度念仏の効力で済度された亡者が再び現れて荒れ狂う様を表している。
山伏神楽の勢剣や三宝荒神のように三人で刀潜りをします。

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動画でどうぞ。


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2017.02.01 |

2017.01.28 | Comments(0) | Trackback(0) | カテゴリ剣舞

北藤根鬼剣舞 一番庭+ 鬼っ子剣舞 刀剣舞の狂い

さて本日は、藤根地区郷土芸能踊り初め会から北藤根鬼剣舞です。

由来について

「大正5年に南笹間組(花巻市)小原長蔵他6名から相伝し、大正7年に伝書伝授。
大正12年9月29日に岩崎鬼剣舞小田島長蔵ほか5名から庭元小原民蔵が相伝を受けている。
平成7年に供養碑建立した後暫く中断したが、平成16年に復活し、現7代目庭元伊藤大輝が継承している」

ということで、藤根の若者鬼剣舞です。



「北上民俗芸能綜覧」によると、北藤根鬼剣舞にはかつてはカッカタもあり、さらに胴取4人があったということなので跳ね胴もあったということか。


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一番庭は礼舞ということで、舞い込みの最初に出されることが多い。
引き念仏、掃き念仏から早念仏にかわり、三足を踏んだ後にせんや念仏。
そして輪踊りとなる。この辺が鬼剣舞らしいところで、囃子も代表的なフレーズですね。
(力強い反閇でビデオカメラが揺れてます)

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続いて鬼っ子剣舞です。
平成26年に結成された北藤根鬼剣舞の育成団体なそうです。
7代目チルドレンかと思ったら、他の地区からも参加しているそうです。
他の地域の剣舞から見たらとても羨ましい光景だと思います。
みんな頑張って続けてけいらいね。

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動画でどうぞ。


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2017.01.28 |

2017.01.26 | Comments(0) | Trackback(0) | カテゴリ剣舞

道地ひな子剣舞 七拍子、十七拍子@ 藤根地区郷土芸能踊り初め会

さて本日は、藤根地区郷土芸能踊り初め会から道地ひな子剣舞です。

北上市には大きく分けて3つの形態の剣舞が伝承されています。

一つは、北上川東岸の門岡・立花周辺に伝わる羽根采をつけた阿修羅踊りの剣舞。
もう一つは、岩崎を濫觴とする風流化した念仏剣舞で、明治後半以降に勃興した鬼剣舞。
そして、盛岡周辺の大念仏の要素を持った雛子剣舞です。
この雛子剣舞は、この藤根の道地剣舞と、和賀の煤孫剣舞、それと飯豊雛子剣舞があります。

道地ひな子剣舞は、大正10年に庭元宅火災のため伝書等が消失したが、嘉祥年間に慈覚大師が東北布教の折に伝授したというが確かでないという。
地元稲葉神社境内には文久元年(1861)の念仏供養碑、明治25年(1892)の大念仏供養の碑等が残っており、江戸時代後期には踊られていたと推察される。

道地ひな子剣舞保存会が組織され、平成元年に岩手県無形民俗文化財に指定され、平成28年12月には文化庁jから地域文化功労者としての表彰を受けているということです。



囃子(オカド)は、太鼓、笛、鉦、簓で奏され、踊りは坊子(男子2~4名)と踊り子(女子8~14人)、それと跳ね胴を打つ年長の女子4~6名という構成になっている。
衣装の背中に結付けた四角い布はケサ(袈裟)と呼ばれるもので、手には錫杖と呼ぶ花を付けた唐団扇を持つ。

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演目は ①七拍子、②十七拍子、③二十三拍子、④二十七拍子、⑤二十九拍子の五種目で、このうち①②⑤には踊りの後にハネド(太鼓の曲打ち)がつく。

舞の順は、入端、中、引端、坊子踊で、一踊り済むと坊子が周りを踊って終わる。
坊子が手にするのはツボケ(ツチ)で、踊り手は禅僧慧可が断臂(片腕)で修行したことに因んで、必ず左手は使わない仕来りになっているという。

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輪踊りが終わると、太鼓の打ち手が大人から少女に代わり、跳ね胴になる。
これはまさに大念仏の廻り胴と同じで、岩手の民俗芸能念仏踊編によれば、「紫波町の赤石田植踊の老師匠は、雛子剣舞の拍子は念仏剣舞(大念仏剣舞)のマワリ胴と同じだといっていた」とあります。

が、胆沢の念仏剣舞でも跳ね胴があり、やはり同じ役割をもっている。
踊りの構成は違っていても、囃子の基調となるものは通底しているといえるかもしれない。

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動画でどうぞ。

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2017.01.26 |

2016.12.25 | Comments(0) | Trackback(0) | カテゴリ剣舞

原体剣舞 「太刀入り剣舞」

さて本日は、江刺民俗芸能フェスティバルから原体剣舞で太刀入り剣舞です。

その前に原体剣舞の由来について当日パンフレットより

「原体剣舞は、慶応元年(1865年)に岩谷堂の増沢剣舞から伝えられた稚児剣舞です。
縁起によると、奥州平泉初代の藤原清衡が豊田館(江刺区岩谷堂)に在ったとき、清原家衡の襲撃を受けて一族郎党皆殺しとなったときの怨霊供養のため始められたとも伝えられています。清衡の亡き妻と子の供養のため、女子と稚児の演ずる剣舞となったものといわれております。
昭和43年頃に原体地区民全員で保存伝承を支援するために後援会を結成し、昭和48年頃に名称を原体剣舞保存会に改め、原体地区の小学生が伝承活動を行い現在に至っています。現在の踊リメンバーは、少子化が進みつつも、小学2年生から6年生までの
13人で構成し、練習中の1年生が3人となっています。※本日の公演には、中学生も出演しています
大正6年(1918年)8月、江刺を訪れた宮沢賢治がこの剣舞を鑑賞し、長編の詩「原体剣舞連」を残していることで知られています。
昭和48年11月3日に、旧江刺市の無形民俗文化財に指定されています。」

ということです。

江刺の念仏剣舞は門岡系統や衣川からの伝承等が混在しているが、詳細な伝書等がないことより各団体とも出自は定かでないとしている。

しかしながら、原体剣舞は隣接する増沢集落からの伝来とあり、さらに増沢では鹿踊りとともに、文政10年に伊手二渡地の神から伝わったとあります。
(鹿踊と剣舞が共に伝承されということは仙台の鹿踊剣舞が連想されます)

この伊手は鉱山で有名な集落で、幕藩時代には相当な賑わいがあり、金掘技術とともに様々な文化が移入された地域でもある。
玉里の熊野田念仏剣舞の伝書には「江刺郡伊手村漆立屋敷庭元より」伝授されたとあるので、現在では伝承が無くなっている剣舞がここにあったと推察する。

入り込むと直ぐに跳ね人が力強くも厳かに胴をとります。気仙地方の念仏剣舞の胴取もこの派生形と思われる。



演目は、「安剣舞」「卯平剣舞」「太刀入り剣舞」「参入り剣舞」があり、この日は刀舞がはいる太刀入り剣舞です。

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舞手は頭に鳥毛采をつけ、右手に扇、左手にメンボウ(金剛杖)を持ち、腰の後ろに鬼面を結わえ付けている。この鬼面は元は顔につけていたということです。

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念仏剣舞らしさを際立たせているのは女の子2人がそれぞれ鉦とササラを担当している所です。
江刺の念仏剣舞は、衣川の川西大念仏剣舞のように亡霊済度という観念がなく、念仏によって先祖精霊を慰め、反閇等の所作によって大地を鎮め、ゆきては来る秋の豊作を願う踊りのように思えます。

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これは、スンボウ(信坊子)で、サルコの黒面をつけ、右手に唐団扇、左手に杖を持って他の舞手と対峙して踊ります。
太刀入り剣舞は盆の門付け等で礼式として最後に舞うことになっているという。

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動画でどうぞ。

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2016.12.25 |

2016.11.26 | Comments(0) | Trackback(0) | カテゴリ剣舞

平泉流細野念仏剣舞 @ 第36回金ケ崎町郷土芸能発表大会

さて本日は、第36回金ケ崎町郷土芸能発表大会から平泉流細野念仏剣舞です。
演目は入込み、早念仏、讃、神楽拍子の順でした。

細野念仏剣舞の由来については金ヶ崎町の民俗芸能誌他より

平泉の藤原泰衡が源九郎義経を討った後、亡魂が高館や猫魔が渕に現れ人々を悩ませていたので、中尊寺では七日七夜山王神社に祈祷した所、一匹の猿が現れ亡魂に混じって面白おかしく踊りだしたという。
これを見ていた亡魂が一緒に踊っているうちに済度されたということが念仏剣舞の濫觴と言われている。
永徳三年(1383)七月、平泉高館に住んでいた剣舞の師匠、弥左衛門がこの剣舞を中興し、正長元年(1428)5月、高館駄一郎が南部の立花(北上市)に伝えた。
永岡村に伝わったのは明応三年(1494)6月であるとされる。

ということです。

現在の代表は高橋定幸さんです。



という伝承説明を受けると北上立花の剣舞の系列となるところですが、現在の芸態装束を見る限りは胆沢経由の念仏剣舞です。
金ヶ崎町の民俗芸能誌の中でも「胆沢町の朴の木沢念仏剣舞の伝承と同じ」と書いてあるとおりと思います。

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ところで細野念仏剣舞は、胸当にもあるとおり女剣舞として名声を博した時期がありました。
それは昭和13年に始まる支那事変、それに打ち続く戦争に部落の男たちが招集されて男手の無い中で祖霊を鎮めるための剣舞をなんとしても続けなければという思いで、後に残った女性たちが剣舞を伝承してきたことに基づきます。


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しかしながら、少子高齢化の現在にあって「このままでは剣舞が廃れてしまう」と考えておなご剣舞の皆さんが話し合った結果、子供たちに伝承していこうという機運が盛り上がりました。

そして、永岡地区内の子供たちに呼びかけ、それに応じた子供たちに伝承を始めてこの日の舞台となりました。

以前の細野剣舞はおばさま達のゆるやかな踊りという印象でしたが、この日の神楽拍子などはキレのよい生き生きとした剣舞でした。驚きです。

この日舞台に立った二人には惜しみない「頑張れよ!」の拍手がやみませんでした。

これからの細野念仏剣舞に期待します。

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動画でどうぞ。

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2016.11.26 |

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祭・・・それは祈り、畏れ、そして縋り付くばかりの信仰、神人共生の歓びの象徴。さて、明日のエネルギーの糧を求めに彷徨おう。

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