上沼加茂流法印神楽「神宝」@2023とよま秋祭り神楽大会
さて本日は、2023年9月17日に行なわれたとよま秋祭り神楽大会から上沼加茂流法印神楽で神宝です。
上沼加茂流法印神楽を見るのは2018年の登米市民俗芸能大会以来ですが、浅部法印神楽とともに、流神楽と称される異伝の法印神楽を伝承する貴重な神楽団体です。
由来について
「法印神楽は、仙台藩の北部(現岩手県南地域)に発祥したとみられ、大別すると二流派あり、一つは、三陸沿岸の気仙沼市や石巻市に広く分布する「浜神楽」と呼ばれる流派と、もう一つは、室町時代の康暦年間(1379~ 1381)瀧澤道胤から岩手県東磐井郡藤沢町西口(現一関市)にあつた不動院に伝えられた流派で「流神楽」と称される法印神楽があります。
上沼法印神楽は「流神楽」と呼ばれる神楽で、上沼八幡神社の所伝によると岩手県東磐井地方に発したとみられ、藤沢町西口から上沼八幡神社に伝承され、その後、享和年間(1801~ 1803)京都賀茂出身で東叡山(上野寛永寺)の楽人・峻學が東北地方巡視の折、上沼妙覚院 (白旗家)に滞在したとき、種々の神楽を伝承したのが「加茂流」と言い伝えられています。
江戸時代中期には、妙覺院を中心とした六カ院
旧上沼村妙覺院
旧桜場村八幡寺(清水家)
旧新井田村一乗院(新井家)
旧黒沼村黒沼寺(黒田家)
旧水越村長谷寺(春日家)
旧浅邊村三壽院(芳賀家)
の修験集団により神楽が演じられ、後年、神楽組に加わる法印も増え、往時は十三カ院を擁するに至り、
幕末まで盛んに行われてきました。
しかし、明治初年(1868)の神仏分離令や明治5年(1872)の修験道廃止令の発令に伴い修験院が解体され、法印たちも減少の一途を辿り、明治末年には神楽が演じられなくなりました。
こうした状況を憂慮した上沼、櫻庭、新井田、黒沼の法印達が中心となり神楽を再興させるため資本を拠出して、大正5年(1916)8月、仏式に傾いた神楽手続を神式に改め、表神楽十五番・裏神楽十五番・秘伝神楽三番併せて「三十三番」に組み立て、上沼八幡社の氏子に神楽を伝え現在に至っています。
上沼八幡神社に伝わる神楽本には
「修験道神楽抄〔文政4年(1821)〕」、「緒言(神楽三十三番手続)〔大正5年(1916)頃」、「加茂茂流神楽太鼓唱歌(江戸時代後期)」などのほか、大乗飾り(舞台飾り)を表した「神楽舞殿荘厳(1790年頃)」があり、また、最近発見された秘伝神楽を表した「陰陽寅巻深秘」の奥書には、寛永3年(1626)に記されたものを天明元年(1781)に書き改めたとあり、この神楽の起源は寛永年間(1624~ 1644)まで遡るものと思われます。
法印神楽の基本となる足踏みや手印などは、呪法に基づく型で極めて複雑な多くの様式を持ち、厳しい修錬を要します。
胴取は締太鼓の片面を打ちながら「神歌」を歌い、舞人は仮面をつけたまま「神談議」(かんなぎ)というセリフを声高に唱えることにより神話の筋立てが展開されて行きます。」
とあります。平成29年に宮城県指定無形民俗文化財になっております。
演目の神宝とは十種荘(とくさかざり)とも称して、先代旧事本紀によれば饒速日命が天降りする際に、天神御祖から授けられたとする沖津鏡、辺津鏡、八握剣、生玉、死返玉、足玉、道返玉、蛇比礼、蜂比礼、品物之比礼であるという。
宮中に祀ってある十種の霊宝と呼ばれる宝物に悪神が群がり来て宝物を奪い取ろうとするするので、高皇産霊尊が天穂日命に命じて悪神を追い払う
最初に高皇産霊尊が三宝に載せた神寶を納める。
とそこへ悪鬼が二匹、宝物を狙ってくる
そこへ高皇産霊尊の命を受けた天穂日命が腰に太刀と幣束を差して登場し、
「それ神勅を承りし、天穂日命とは我が事なり。諸々の悪神来たりて妨げをなす。これより退治せんこと暫時のうちなるべし」と唱えて悪鬼征伐を始めます
最初は竹杖で戦い、次に刀での勝負となります。
ついに悪鬼を平定し、無事に神宝を取り戻して幕入りとなる。
動画でどうぞ
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