行山流佐沼鹿踊「三人舞」@2023とよま秋まつり
さて本日は、2023年9月17日に行なわれた登米秋まつりのにぎわいステージに出演した行山流佐沼鹿踊で三人舞です。
佐沼鹿踊の由来について
「大正12年発刊の「登米郡史」によると、現在の宮城県登米市追町と南方町、栗原市瀬峰の一部が佐沼郷と呼ばれていた江戸時代初期に、四組の鹿踊りの組があり、毎年交代で佐沼城(鹿ケ城)に踊りを奉納していたといいます。装束の幕には、津田家の紋所の開き扇と鱗、亘理家の紋所の九曜星があったことから、邑主に許された踊りであつたと推測されます。
昭和初期には姿を消し、長らく幻の郷土芸能となっていたものを、平成7年、あらためて(財)登米文化振興財団が調査に着手。翌年には、同じ流派と思われる宮城県本吉郡志津川町(現南三陸町)の水戸邊鹿子躍保存会の指導を受けて、復興への第一歩を踏み出しました。その時に指導を受けたメンバーで「佐沼鹿踊伝承会」を設立、会員を募りながら、稽古を重ねてきました。そして平成10年7月、演目のひとつ「二人舞」を市民の前で披露することができました。」
とあります。現在の佐沼鹿踊伝承会会長は大場勘市さんです。
佐沼鹿踊に関して、以下及川宏幸著「行山流鹿踊」より抜粋
「安永風土御用書上」には江戸期、佐沼では毎年7月15日に佐沼の城の主に鹿踊を献上するのが習いであったとある。
.北方泥内の山の神神社境内に安政3(1856)年の踊供養碑が残されている。踊り手は佐沼(迫町)と本郷(南方町)で一組を成して10名、北浦(迫町)と日向(迫町)で一組を成して10名、新田(迫町)単独一組で10名、藤沢(瀬峰町)単独一組で10名である。
まず最初に本郷(南方町)組が新町に来て祝い歌を歌い、新町、八日町で一踊りする。
その他の北浦(迫町)・日向(迫町)・新田(迫町)・藤沢(瀬峰町)の各組は、瀬峰街道の板橋口→板橋喰違→津島神社社頭→御札
場→羽黒神社と唄い踊り佐沼の町中を歩く。
次に佐沼の館で踊る前に、佐沼・本郷組10名+北浦・日向組10名の計20名の踊衆と、新田組10名十藤沢組10名の計20名の踊衆との2つに分かれ、両踊衆が隔年交替で城中で踊ることになる。
羽黒神社前から城の大門に向かい、城主の前で踊った後、夕方城主の墓所で墓踊りし終了となる。この踊のササラは頭上2尺を出てはならないとされていた。理由としては、佐沼の館の門が低いための制限だったとの口伝がある。
この他の踊りに長踊があり、頭上5,6尺の腰差しで踊ったという。これは城内で踊るのは許されなかった。ササラが短いため「ゴンポ鹿」とも呼ばれた。
特徴としては一組10人であつたこと。役割の名称が先生、発生代わり、大脇、側、女鹿となっており、他に見られない名称がみられること。そしてササラが短いことが上げあれる。
装束としては、幕にはなにがしの六郎と書いた紋巻鶴と波に兎、元領主津田家紋所の開き扇と鱗、新領主互理家の紋所九曜星。」
この日は新田小学校の児童3名も加わっての鹿踊。活気づいている佐沼鹿踊に期待しています。
動画でどうぞ
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