山屋田植踊@2022第44回一戸町郷土芸能祭
さて本日は、2022年11月13日に行なわれた第44回一戸町郷土芸能祭から招待団体、紫波町の山屋田植踊です。
山屋田植踊は、庭田植えの部類でも県中部地方に見られる田植踊りの特徴を色濃く伝えている芸能として、昭和56年に国指定重要無形民俗文化財に指定されているということです。
紫波町の田植踊について「広報しわ(第199号)」(昭和47年3月10日発行)には次のように記載して現存・廃絶になった田植踊について概説しています。
「田植踊は、古くは冬の娯楽の随一であり、純粋な農民芸能として大衆に親しまれてきました。従って、踊り仲間も少なくなったかと思われますが、そのうち、明治以前からの存在が伝えられているものに、彦部・山屋・南伝法寺・遠山のそれがあります。
彦部の田植踊りは、鎌倉時代の前期、是信房がこの地に本誓寺を建てて布教にあたった際、人集めの手段として京都の田楽を普及したのが始まりだと伝えられていますが、別に明証があるわけではありません。五拍子であることが特徴であり、中に車踊りのあるのも独得であります。
山屋の田植踊りは、平泉藤原氏が栄えたころ、砂金採取のために来住した京都出身者によって伝えられたといわれています。しかし、これとても真偽のほどは定かでありません。
南伝法寺のそれは、宇南家を座元として行なわれたもので、文久三年(1863)正月に、太田の三合の伊藤雅楽流から同家の要蔵に相伝されたものです。但し、同地の久保屋敷家には、文政七年(1824)正月7日書き留めの「田植口上覚」が伝えられているから、同地には、これ以前から踊り仲間があったものと思われます。
遠山のそれについては、明治以前からあったと伝えられるだけで記録的に徴すべきものはありません。
この外、現在行なわれているものとして佐比内の田植踊りがありますが、その由来については明らかではありません。」
ということです。
山屋田植踊の由来と演目について、当日受付で頒布されていた「山屋の田植踊り」(500円)から抜粋します。
「その昔山屋部落では砂金がよく取れ、採金業が盛んに行われていた。平泉藤原氏の時代に砂金採掘の為に京より来住した「孫六」なる人が好んで田楽、田舞などを踊り、土地の豪族菅原氏を介して里人を踊らせたものが、土地での変遷を経て現在に伝わったものであるといわれている。また、山屋田植踊に古くから遺され伝わっている由来書の中には「山屋乙峠石に八枚金山と称する抗区があり、これの支配人として伏見在の孫六と申す人あり、これが非常に芸事に優れた人で祭日や休日などに演じたるに、この賑やかな踊りに、土地の豪族菅原氏大いに讃同し、里人に勧めその伝承を受けさせ、自らも演じた」とある。 尚、平成7年発掘された「山屋経塚からの出土品常滑三筋文壷」等によって平泉文化と山屋集落との関係も立証された。
毎年正月15日(近い休日)、庭元にある田の神様に一行が笠揃えをして、その年の田植踊が始まる。昔は、農閑期でもある冬の娯楽はもっぱら田植踊りであり冬期間各部落の旦那衆の家々を、その年の豊作を祈りながら踊り廻ったといわれている。 」
ということです。
最初に恒例の前口上から
続いて苗代拵えです。
田事の真似をして豊作の予祝をするのが田植踊ですので、早乙女と田事の指図をする一八とが出て舞いながら口上します。
早乙女の前掛けには田植踊の文字が、ユーモラスな仕掛けです。
次に五穀下しと種蒔きです。
五穀下しの部分は、神楽の五穀舞に倣って天照皇大神から五穀の種を拝することを翁舞になぞらえて演ずる。
稲荷から種を授かった一八が種まきをする
ここで仲踊り
田の肥やしにする落ち葉や活木などを土中に踏み込む労働の様を表現して踊るという
いよいよ田植えです。男性が扮する早乙女が花笠を激しく振り、賑やかな田植えの様子を表している。
山屋での正月公演ではこのあと更に早苗振支度の道化や三番叟、稲刈りへと続きます。
動画でどうぞ
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