大槌稲荷神社訪問記③
本日は大槌稲荷神社の十王舘宮司から聞いた話と文献から安渡祭りと二渡神楽について書いてみる。
大槌稲荷神社菊池祖晴の著書「二渡神社縁起抄」によると、この神社は最初「笹原」にあった大屋一族の氏神として祀られていたが、正保2年に「波辻崎」に移したころから村の鎮守となる。さらに亨保5年に現在地に遷座したので二渡神社と称した。別当は代々修験が継いでおり、羽黒山寂光寺から「正学院螺緒白袴」の免状を得ている。
文化12年に南部藩主が小鎚神社別当に両社兼務を命じたが、二渡神社を崇敬する安渡住民がこれに抵抗してついに独立を守ったというエピソードがある。
(赤鳥居は津波で倒されたが再建した、コンクリート擁壁の傷は津波の爪痕)
神楽道具昭和35年生まれの宮司は若い頃、秋田県の護国神社で修行をしていたが先代(父親)に呼び戻されて神社を継いだ。継いだ当時に神社の蔵の中を整理していて一つの行李を見つけた。
その中には虫喰った面、ボロボロになった神楽衣装、酒臭い笛が入っていた。
こんなのゴミだからと捨てようとしたら親父が大事なものだから捨てるなと言ったので、本殿内のガラスケースに収納することにしたと。
(黒森系とみられる面の数々)
二渡神楽 昭和36年頃まで廻り神楽を行なっていた。北の黒森・南の二渡と言われ、黒森が南廻りをする年は二渡は北を廻った。(注釈1)
南廻りをする時は唐桑半島まで出かけていた。
巡行の際に上げられる御花は、当時は硬貨が多く百円札は数えるくらい、それを胴元(神社)四分、舞手六分で分けた。
二渡神楽の舞手は大槌町の小鎚川上流にある徳並部落の人達であった。
二渡神楽が凋落した原因は舞手集団がこの徳並しかなかったこともある。(黒森神楽等では複数の集落から神楽上手が選びぬかれてくるので人材が途切れることがないと)
神楽と出稼ぎ 神楽の担い手は農民であり、神楽の巡行は冬場の稼ぎ仕事であった。
浜の漁師は正月用のキンキ漁が終わると春漁が始まるまで暇だったので、その娯楽のために神楽を呼んで楽しみとしていた。
神楽の舞手にとって農閑期の収入源として神楽を舞っていたが、その拘束時間や労働量(稽古・門付・廻村)に比して収入額が少なかった。
それが、戦後から高度経済成長期になると東京方面へ出稼ぎに行ったほうが確実で高収入が得られることから次第に神楽から離れていったと。
宮司さんはこの戦後間もない頃に廃れた二渡神楽を復活させたいと考えておられるようです。
同じ流れの神楽に釜石市栗林町の丹内神楽、大槌町花輪田の花輪田神楽があるようです。
ぜひ復活してほしいと思います。
(注釈1)
「宝暦八年 宮古黒森山 獅子舞廻し方」(黒森別当が永福寺に提出した書類)によると他の神楽衆から霞場をめぐっての訴状に対して
「波板村・吉利々々村・赤浜村・安戸村・大槌村の五ケ村は果ての村であるゆえに届出しておらず、6~7年に1回あるいは10年に1回で廻り、(他の地区のように)隔年で廻りかねた」と言い訳している。
実はこの五ケ村は二渡神楽の霞場であるため廻り込むのが難しかったのではと思われる。
そんな神楽や郷土芸能を復興の拠り所とすべく集会所兼野外公演の場作りの計画もされております。
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