栗原神楽「衣川の戦い、義経主従の最期」@2020第1回新春くりこま神楽鑑賞会
さて本日は、第1回新春くりこま神楽鑑賞会から最後の演目、栗原神楽で衣川の戦い、義経主従の最期です。
その前に、栗原神楽さんの由来については定本より
「明治一二年三月三一日、栗原悦之助が神道事務局に神楽の届出し承認を得た文書がある。
岩手県萩荘村市野々の自鏡山山伏神楽の指導を得たといわれている。
大正時代に復活、中断した。昭和五年、栗原の佐藤正吉が指導し再興する。その弟子代表の佐藤左吉に引継がれ現在に至っている。初代庭元栗原悦之助が中断後を再興した。」とあります。
現在の代表者は佐藤敬さんです。
さて義経公の最期です
源平の戦において数々の武勲を立てながら兄頼朝に追討の目にあい、奥州平泉は藤原秀衡のもとへ身を寄せたものの、秀衡亡き後の平泉は不穏な空気が漂う。
義経は、秀衡長男の国衡に呼び出され、泰衡が頼朝に平泉の安堵を願い出るため義経を討つ覚悟を決めたことを知らされます。
そこで義経は家臣の弁慶、片岡八ヽ郎、鷲尾三郎らを集め、事態を説明し、これを恨まず武士の礼として泰衡と相まみえることを心にかけて戦の準備をせよと命じます。
弁慶は「敵に背をむけるのは我々の兵法ではない。少人数ながら恐れるに足らず」と皆を鼓舞します。
義経は、兄頼朝は我々が逃げても首を取るまで諦めず、どこに逃げても終わらない戦いなので党悟するよう言います。
主君義経の言葉を聞いて家臣たちは次のように返答します。
片岡八郎は、屋島の戦いでは数千騎の敵に対して百五十騎で戦い、一ノ谷では七十騎で勝利したと。
鷲尾三郎は、猟師の倅が義経の一字をもらい武士として仕えてこられた日々が有難く幸せであつたと。
それぞれ源平含戦以来の想い出を語り合ったのでした。
そこに泰衡の弟忠衡の家臣関戸弥平が来て、忠衡が泰衡の臣下の手にかかり最期を遂げたことを知らされます。
弥平は、敵がこの館に向っているため、自分が防ぐ間に早<立ち去るよう進言します。
義経は家臣たちに最後の戦いと思い存分に戦うよう告げ、これまで自分に付き従がってくれたことに礼を言います。
弁慶は、「お礼を言うのは我々でこれまで殿に仕えたこと誠に幸せだった」と返します。
これを聞いた義経は、「生まれ変わっても我らは主従なり」と家臣の名前を呼び、鬨の声をあげるのでした。
数的に絶対不利な戦の中、義経は弁慶に最後の頼みとして、館の防御を頼みます。
弁慶の「もはやこの世の別れなのか」との問いかけに義経は、長く苦労をかけたと礼を言います。
それを受けて弁慶は館の前に立ち「館には一兵も入れぬ」と叫んで立ち往生となります。
これが世に謂う弁慶の立ち往生
一方、館の義経はこれまでの自分の人生を振り返ります。
平家を減ぼし父義朝の恥辱を晴らして源氏再興を果たしたものの兄頼朝から命を狙われ、さらには平泉を戦火に巻き込むとは、まことに血を分けた兄がすることかと嘆きます。
しかし義経は、自分の首一つで平泉が守れるならこの命など惜しく無い、この平泉で永らえた命を平泉のために散らそうと党悟し
ます。
その一方で、こうすることを亡き父が受け入れてくれるか、また平泉を自分に託した秀衡は許してくれるだろうかとも案じる義経。
意を決して、自分の身代わりに屋島で亡くなった佐藤継信、逃亡中に京都で討死した佐藤忠信、同じ<逃亡先で討たれた伊勢義盛の元に向わんと、義経は館に入ります。
動画でどうぞ
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