雄勝法印神楽「岩戸開~チラシ」@第42回石巻地方神楽大会
さて本日は、第42回石巻地方神楽大会から最後の演目で雄勝法印神楽による岩戸開です。
雄勝法印神楽さんは国指定の無形民俗文化財となっています。
由来については「宮城県民俗芸能(1)法印神楽編」より
雄勝町大浜の葉山神社(石神社)宮司千葉憲彦家は、かっての羽黒派修験の市明院で、社伝によれば延徳2(1490)年に創始されたといわれる。同家には元文4(1739)年の『御神楽之大吏』が所蔵されてあり、法印神楽において最も古い文書である。この神楽文書については1項目をもって前述しておいた。同家の延享3(1746)年10月の修験書上によると、桃生郡内の羽黒派十法印(または桃生十箇院とも称す)が記載されてあり、その中には雄勝町の大浜市明院、雄勝浜金剛院(現熊野神社小田家)大須浜大性院(廃絶)の3院が記されている。雄勝町での旧神楽組はこれらの同派修験が相集って神楽を行っていたものと思われるが、長い時代にはどういう経過をたどったものかは解らない。おそらく修験廃止の明治以降だと考えられるが、雄勝町域における神楽組はこの3院を本拠として基本的には3組の神楽団によって行われてきたが、それぞれ相互に交流し合い、さらに十三浜(現北上町)や本吉郡の戸倉(現志津川町)の神楽組との交流も深まっていたといわれる。昭和15年に十五浜神楽団(十五浜とは雄勝町の旧村名)が結成されていたが、昭和26年4月に至り町内の3団体が正式に合流して雄勝法印神楽保存会が結成され1団体に結束して活動し始めた。
ということです。現在の代表者は末永千一郎さんです。
岩戸開は、雄勝法印神楽では最も重要視されていて必ず舞うこととされて、「岩戸開」を舞わないと、神輿の神社への還幸をしないほどであるという。
最初にネリ調子で「知慶」が出る。
〽 そもそも神代の昔、天岩戸のはじめを尋ぬるに、素戔嗚尊、日の御神の為に行跡甚だあじけなく、品々侮りなし給えば、皇の御神は岩屋に入らせ給いて岩戸を閉ざし、隠れましますが故に、天の下常闇の世となるなり
次に天津神が出て一舞
〽 応 天神七代地神五代天津神の始めこれなり
ついで国津神
〽 応 天神七代地神五代、国津神の始めこれなり
次に天細女命出て岩戸に向かって座し、三拝したのち立って「鈴みかぐら」を舞う
ついで手力雄命が出て、高舞台に進み岩戸がかりをする
〽 種を蒔き、鋤をおし、岩戸の扉を押し開き、今こそ大神あらわし給えや
手力雄命が天照大神の手を引き舞台を一巡りして、天細女命に渡し、知慶、天細女命、天津神、国津神の順に舞台から降りる
手力雄命が舞台に残って、素戔嗚尊の狼藉を責めるため呼び立てます
素箋嗚尊 「応 これは何事にて候やの」
天児屋命「応 その御のち八百万の神達共に議って罪を素戔嗚尊に帰し、祝部の神達千座の置座を持って責め神祓えに祓い給えや」
手力雄命と素戔嗚尊の戦いとなる
無事素戔嗚尊を追い出して天下安泰となって岩戸開はめでたく治まります。
さて、その後は、この日の神楽大会の最後の演目でしたので、これで今日の神楽は終わりますという標しに「チラシ」が納めの舞として演じられます。
これは真剣を持ってのアクロバティックな激しい舞で、修験者の法力をもってすべてを祓い、この場に集まった観衆の災厄消除をも祈祷する舞です。
また、これを見ることによってこの日の神楽の余韻に浸って家路につくことが約束されるような舞ともなっています。
動画でどうぞ
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