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2012.07.18 | Comments(2) | Trackback(0) | カテゴリ神楽

舘神楽 水神舞

登米市民俗芸能大会の続きですが、甚句や獅子舞、鹿踊を飛ばして神楽にいきます。

加茂流舘神楽の由来から

明治三九年、五穀豊穣、疫病退散と併せて日露戦争後の青年の心の融和を目標に、及川徳蔵が庭元となり、栗原郡藤里村藤里(現在瀬峯町)より南部神楽の細川勇三郎師匠を招き神楽の指導を受け、舘青年神楽を創設した。
大正元年、及川徳蔵、佐々木次郎右エ門が師匠になり、弟子の養成を図り村社新羅神社の附属神楽となり、宮司より加茂流の命名を受ける。
昭和四五年、保存会を結成、瀬峰町よりの要請で神楽の復活のため指導に当った。

とあります。

演目は水神舞ですが三人舞となっていました。



ここの神楽は手次に特徴があって御神楽では、扇に鉾を置く感じです(どこかでも見た気がしますが)

DSC02264.jpg

舞の手も独特で躍るような感じ(ちょっと違うが。。)

DSC02260.jpg

動画でどうぞ。

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テーマ:伝統芸能 - ジャンル:学問・文化・芸術

2012.07.18 |

コメント:

神楽面のことなのですが、

神楽面のことなのですが、調べてみたところ、スサノオノミコトや、日本武尊に用いるくい〆の面が、笹流南部神楽っぽい面だと思われます。(若男の面も)
加茂流舘神楽、笹流加賀野神楽、竹花南部神楽、
瀬峰神楽(旧称藤沢神楽)南部笹流大平神楽これらの団体が、笹流南部神楽系の仲間同士かもしれませんよ。v-398

2014-03-01 土 10:52:36 | URL | 南部神楽 #- [ 編集]

Re: 神楽面のことなのですが、

南部神楽様、いつもコメント頂きありがとうございます。

ご指摘のとおり、舘神楽は明治39年に瀬峰神楽から伝承され、瀬峰神楽は明治初年頃から南部神楽を行っていました。
加賀野神楽は明治43年に大平(梅崎)神楽から伝承されています。そして大平神楽は明治初年に衣川から若柳に婿入りした高橋忠右衛門から南部神楽を習得しています。

つまり、総じて笹谷系の神楽の系統であるということでしょう。
もっとも、その後各団体はそれぞれ別の系統の演目や舞の手を取り入れたりしているので、今となっては多少違いも見られるように思います。
面についても、戦後は流派の違いというより、どこの面彫師から面を入手したかの違いになってきつつあるように思います。(昔は神楽組の者が面を彫ったので、その特徴が現れたのかと)


2014-03-04 火 22:18:40 | URL | 祭りの追っかけ #- [ 編集]

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