吉里吉里虎舞 @大槌町郷土芸能祭
さて本日は、大槌町郷土芸能祭から吉里吉里虎舞講中さんです。
由来について
「:約300年前の江戸時代、盛岡藩に海産物を手広く扱う前川善兵衛という豪商がおり、店が大槌町吉里吉里にあったことから吉里吉里善兵街と呼ばれた。
三代目善兵衛助友が千石船で江戸や大阪に繰り出し、交易に励んでいた頃、慶徳5年(1716年)江戸の竹本座で近松門左衛門の浄瑠璃「国姓爺合戦」の―説「千里ヶ竹」の大虎退治の場面に感動を受けた。
郷土に帰つた三代目、虎舞の頭を赤土で造り、踊りの振りや、笛・太鼓の囃子をつけ、現在の舞にしたといわれている。
虎頭は、善兵衛助友お抱え鍛冶屋(現在の三浦宅)に預けていたが、近所の北田、花道の両地区14軒の人達がこれを譲り受け宮内どん北田政彦さん宅に収め「国姓爺合戦」の中で大虎を退治する「千里ヶ竹」の場面を舞踊化し、笛と太鼓の囃子をつけて、今の様な虎舞にしたと言い伝えられている」
ということです。
タイトルにもあるとおり、吉里吉里虎舞は講中であり保存会ではないということです。
吉里吉里4丁目地区270戸中30戸が加入し、江戸時代からの伝承形態そのままということです。
演目は、囃子のみの「散らし」、祭りで道行の際に賑やかに舞い踊る「通り舞」
そして、「庭使い」では笹で牙を磨く虎を表現し、その後、和藤内との戦いがあります。
和藤内というのは正徳5年(1715)に近松門左衛門が人形浄瑠璃の作品として出した物を、大阪竹本座で初演し人気をはくしたものです。
中国の王朝・大明国が滅ぼされたことを受けて、かつての明の忠臣・鄭芝龍と日本人の妻との間に生まれた和藤内(わとうない)が、唐土に渡って国性爺鄭成功(こくせんやていせいこう)と名を改め、明国再興のため活躍するという壮大な物語です。
和藤内が道中で猛々しい虎に出会った時に、伊勢神宮の神札をかざすと虎がおとなしく従ったということです。
虎舞のこの場面でも和藤内が天照皇大神の札を掲げていますが、吉里吉里に鎮座する天照御祖神社に奉納する虎舞であることも意味しています。
動画でどうぞ。
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