城生野神楽 工藤左衛門祐経祈願の場 @ 第30回あやめ祭り神楽大会
さて、本日は第30回あやめ祭り神楽大会から城生野神楽さんで 工藤左衛門祐経祈願の場です。
その前に、城生野神楽さんの由来について定本より
「嘉永年間(一八四八)富野城生野の富助が岩手県西磐井郡萩荘村市野々、自鏡山の山伏神楽を習得した。後部落の若者達に指導して城生野神楽を創設した。
以来城生野神楽は、山伏神楽の正統を保っているので宮城県北の神楽の総元締である。
初代庭元千葉幸之進、現在の庭元加藤義勝は五代目である。
昭和三六年一一月、築館町の無形文化財に指定されている。」
とあります通り、幕末に自鏡山の法印神楽を習得して以来、明治中期に阿久戸神楽に伝承したのを初めに、栗原地方の十数団体に神楽伝授を行なってきた団体であります。現在の代表は佐藤安美さんです。
この日の胴は佐藤涼さんです。
さて、第30回を迎えた今大会では、実行委員会の発案で曽我物語の通し上演という趣向になりました。
東北の南部伊達領境のこの地方に、何故曽我物語の神楽演目があるのかというと、話は長くなりますので要約して説明すると、南部神楽のうちの劇舞と称される物語の元は、幕末から明治大正期に、農閑期に廻村した盲目の遊行僧が語った奥浄瑠璃にあり、それが南部神楽の台本へと引き継がれたことによるもの。当時人気の高かった曽我兄弟の仇討ち話をもとにした曽我モノの演目が人気を博したというわけで今日も頻繁に上演されることとなっているようです。
また、この工藤祐経の子孫が後に東北地方に下向し、岩手や八戸の工藤氏の祖となっていることも、親しみやすさのもととなっているようです。
さて、曽我兄弟の仇討ちですが、話の最初は工藤左衛門祐隆から始まりますが、この工藤氏の家系には祐◯◯という名前がたくさん出てくるため、非常に混乱します。が、これまた要約して説明すると、
伊豆国東部の久須美荘を所領していた工藤祐隆は、嫡子である伊東祐家が早世すると、後妻の娘との間に生まれた子を、家督を継がせるために工藤祐継として養子とし、本領である伊東荘・宇佐美荘を与える一方、伊東祐家の子である嫡孫の伊東祐親(河津氏の祖)には河津荘を与える形で、領地を分割継承させた。
しかし、この措置に不満を覚えた伊東祐親は、工藤祐継の死後にその領地を奪取。それを恨んだ工藤祐継の子である工藤祐経が、今度は伊東祐親の嫡子・河津三郎祐泰を射殺。それに対して、河津三郎祐泰の子十郎祐成と五郎時致が仇討ちを果たしたという物語。
その物語の最初の場面が工藤祐経祈願の場ですが、城生野神楽さんでは現舞手になってからは初演となるそうです。
工藤左衛門祐経とその配下、大見小藤太と八幡三郎が八重垣舞で入り込み、河津三郎祐泰を討ち取ることを三島大明神に祈願します。
源頼朝の富士の巻狩に参じた河津三郎祐泰です。
主に河津三郎祐泰を討てと命じられたものの、良策が浮かばす落胆する大見小藤太と八幡三郎。
「このまま死するは犬死なり、今までの苦労も水の泡」と嘆きます。
そこで一計を案じ、巻狩の帰途を狙うこととします。
河津三郎祐泰親子が赤沢山を通ると聞き、遠矢にて討ち取ろうと図ります。
三本の杉の木に隠れて弓を引くこととします。
必ず本懐をとげんと誓います。
動画でどうぞ。
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