2016.06.20 | Comments(0) | Trackback(0) | カテゴリ神楽

達古袋神楽 弁慶安宅の関@第12回神楽共演石越大会

今宵は満月です。そして明日は夏至、これからは日足が短くなるととともに盆に向けて様々な祓い清めが行われる日々となる。

さて、本日は、達古袋神楽さんの弁慶安宅の関についてです。

その前に、達古袋神楽さんの由来について定本より

「明治二年の火災で記録を失ったので資料はないが伝える所によれば、八幡神社は田村麻呂公の勧請といい、康平五年(一○六二)八月一五日再建の棟札もある。
八幡山常学院は、京都本山派の相模坊が、文明一○年(一四七八)開設し、古くから八幡神社の奉納神楽として法印神楽が舞われて来た。
なお弘化年代(一八四四)に神楽も盛んになり、明治以降には、胆沢地方、宮城県北、栗原郡、玉造郡等にも伝えられた。
明治以前は常学院が宮元となり指導に当ったが、以降の歴代師匠は、明治一一年小野寺伊三郎、明治二○年阿部徳太郎、明治二五年小岩勝蔵、明治三○年小岩利右エ門、小岩彦三郎、大正九年~昭和三八年まで阿部長治、以降阿部孝が指導に当り後継者の養成に当った。」

とあります。現在の代表は小岩恭一さんです。

胴取りは小岩弘征さんです。

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義経が兄頼朝が発した追討の指令から逃れるため弁慶ともども都落ちする場面です。

「誰の讒言か知らねども、兄頼朝に従いて、一ノ谷から壇ノ浦までことごとく戦果をあげたれど、今や追われる身。
これが血を分けし兄弟の仕業かよう~」

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弁慶さんです。主君の義経とともに山伏姿に身をやつして、密かに北陸路を抜けて奥州へと行く道すがら、安宅の関で検分にあいます。

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関守の富樫左衛門尉泰家に義経主従と怪しまれ、疑いを晴らすため、東大寺建立の勧進帳を空読みします。

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数々の疑問はあるものの、山伏一行を義経主従と見破った富樫左衛門尉ですが、武士の情けで通すことに気めます。
山伏先達を武蔵坊弁慶と見破りながらも大法師と呼びかける心遣いに神楽の観衆も惜しみない拍手を送ります。

「彼も武士なら我も武士。ここで、判官殿に縄をかけるのは容易けれど、ここが武士の情けのかけどころ」

ここでちょっと薀蓄になりますが、この富樫のに関して地元石川県野々市市の「野々市町史」に次のような記述があるそうです。
なんと富樫泰家は平泉に来て義経主従と暮らしを共にしたということです。

「富樫左衛門尉泰家は、源頼朝の逮捕令に背き、)義経を安宅に通し野々市に帰って居たが、このこと頼朝の耳に達したので頼朝は、大に立憤し、泰家の守護職を解き同時に官をも剥いだので泰家野々市に安住すること出来ず嫡男家春に家を譲り薙髪し、道名を仏誓と号し名を重純と改め、義経の後を追い奥州路へと落ちて行き、義経の潜居せる陸奥国、藤原秀衡の許で、義経に会ったのである。義経、秀衡に請う手て食田を与えた。泰家此処に暫く留まり(土地の女を娶り、)一子庄九郎を遺して野々市に帰り後年歿した。法号を仏誓と称し没年は不明である」



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動画でどうぞ。


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2016.06.20 |

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