達古袋神楽 弁慶安宅の関 @一関民俗芸能祭
さて、本日は第30回一関民俗芸能祭のトリを飾った、達古袋神楽さんの弁慶安宅の関についてです。
その前に、達古袋神楽さんの由来について定本より
「明治二年の火災で記録を失ったので資料はないが伝える所によれば、八幡神社は田村麻呂公の勧請といい、康平五年(一○六二)八月一五日再建の棟札もある。
八幡山常学院は、京都本山派の相模坊が、文明一○年(一四七八)開設し、古くから八幡神社の奉納神楽として法印神楽が舞われて来た。
なお弘化年代(一八四四)に神楽も盛んになり、明治以降には、胆沢地方、宮城県北、栗原郡、玉造郡等にも伝えられた。
明治以前は常学院が宮元となり指導に当ったが、以降の歴代師匠は、明治一一年小野寺伊三郎、明治二○年阿部徳太郎、明治二五年小岩勝蔵、明治三○年小岩利右エ門、小岩彦三郎、大正九年~昭和三八年まで阿部長治、以降阿部孝が指導に当り後継者の養成に当った。」
とありますが、現在の代表者は小岩恭一さんです。
さて、安宅の関ですが、この日のキャスティングでは、昨年四月から一関市の緑のふるさと協力隊の一員として達古袋地区に派遣された松本さんが義経役となりました。彼女は昨年五月から神楽の練習に参加し、舞台で演技が出来るまでになりましたが、一関での上演は最後の舞台となることを観衆も承知しているため松元さんのセリフ一節ごとに大きな拍手が贈られていました。
安宅の関の神楽の筋立てについては当日プログラムから抜粋します
文治元年四月、一の谷、屋嶋と壇ノ浦の戦いで平家を壊滅した義経は、源氏方の梶原景時の讒言によって兄頼朝の追捕令(追手)を受ける身となり、その時の義経の身の潔白を訴えた「腰越状」は有名。
血を分けた兄頼朝の仕打ちに、もはや西国に居ることはできず、傷心の身を抱きながら、懐かしの平泉をさして都を後にした。途中追っ手にあい、頼む忠信は義経を逃すため奮戦。遂に吉野山にて戦死。義経の愛妻静と生き別れになる。
山伏姿に身を装い北陸路を東国に下る。安宅の関所にさしかかり、関守の富樫泰家に咎められる。関守と弁慶の押し問答。
弁慶の機転の勧進帳、主君への強打となる。関守は武士の情けでこれを見逃す。
弁慶は詫びを入れ自害せんとするも、義経はこれを止め、深く感謝し涙をながして礼を申し、これを許し「平泉まで頼む」
と言う。主従信頼の場面。
動画でどうぞ。
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