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2014.09.10 | Comments(0) | Trackback(0) | カテゴリ神楽

稲倉山神楽と大権院神楽

さて、本日は蓬田神楽発表会の際に見聞した中から、以前から気になっていた「大権院神楽」についてです。
(稲倉神楽は廃絶していますので、本日は実況リポートはありません)

蓬田神楽の由来に「明治25年に舞草の蓬田大助が長島の赤伏より継承し、在来の大権院神楽を折衷した・・・」とあり
ます。一関市文化財報告書5・6集には更に「穴倉の大権院の後裔の家には、京の吉田家より許可された菊の紋所の幕があるよし、現在使用の舞台幕には吉田殿の左の御詠歌を染め抜いている。
 美ち奥の稲倉山の小狭米(おさめよね)くらの御玉と祈る舞草」

ここで言われている大権院とは何なのか、長年の疑問でした。

当日、祭りに集まった氏子さんの一人に尋ねた所「あれ、あの人が子孫だよ」といって紹介してくれたのが、現当主の佐藤宣穂さんでした。

佐藤家は、蓬田集落からほど近い穴倉集落の家で、初代は寛延3年(1751年)ということだったそうだ。
そして、三代の佐藤松蔵は稲倉神社(麻祓神社?)の別当が神楽を始めたというです。

ここは、稲倉神社の一の鳥居です。社殿等は無くなりましたが、二の鳥居の横には行屋が建っていて、かつてはそこで神楽が行なわれ、また奉納相撲が行われた土俵跡もあるということです。



鳥居の右隣りに湯殿山の石碑があり、さらにその右手に神楽供養碑があります。

一行目 「明治二十五年十月吉日
二行目   天照太神

CIMG0952.jpg

 そして、 「稲倉山神楽祖師佐藤松蔵
                  門弟中建 」 とあります。

この石碑は、稲倉山神楽創始者の佐藤松蔵が明治29年に86歳で没した時にその供養として建立されたものだそうです。

CIMG0954.jpg

蓬田神楽を創始した蓬田大助とともに大権院神楽を行っていたという佐藤円吉と、この佐藤松蔵はともに穴倉の神楽人であるが、その関係は不明です。
以下は推測ですが、稲倉山神楽を創始した佐藤松蔵は文久7年生まれの佐藤家三代目で、現当主の佐藤宣穂は九代目。
一方の蓬田大助から現庭元の蓬田稔まで五代となっている。
もしも、佐藤円吉が佐藤家四代目であるとすれば年代的にはほぼ比定できる。再度佐藤さんに確認しなければ・・・。


ところで、稲倉山神楽とはどういう神楽であったのか。
佐藤宣穂さんの話では、創始者の佐藤松蔵は、舞川集落の米を仙台へ貢納する際の付き役だったそうです。そして、帰りに金成周辺で神楽を習得したのが始まりとのこと。
「お袋が云うには、刀を床に刺して宙返りをするような山伏の神楽だった」ということでした。

幕末の金成周辺の神楽というと法印神楽かもしれません。

話は少し飛びますが、明治9年に舞草神社が随神門を残して焼け落ちた時に一時的に(明治25年まで)穴倉に遷座した。
その縁で蓬田神楽が創始されるきっかけともなったのだと思います。
その一方で、明治2年に舞草神社や天満宮などの変更に際して執行人となったのが松川村の神職たちであり、東山松川の法印がこの地方を所掌していたとなると、そちらの法印神楽の影響もあったのかと考えさせられる。

いずれ、謎は深まりゆくのでした。

CIMG0957.jpg

それと今ひとつ。

ここ舞草は言わずと知れた日本最古の曲刀である舞草刀の発祥地です。
平安時代に藤原氏の庇護を受けた刀鍛冶集団が伝来の修法を備えていたことが考えられます。
そして、源頼朝に追われた刀鍛冶集団は羽黒山伏を頼って出羽国月山へと移ったということです。
そして、羽黒山伏としてまた月出づる処から月沈む気仙地方へと神楽を携えて渡ってくる・・・スーパームーンを眺めながらそんなことを考えました。

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2014.09.10 |

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