牡鹿神楽古実会「西の宮」@2023第50回石巻地方神楽大会
さて本日は、2023年9月3日に行なわれた第50回石巻地方神楽大会から牡鹿神楽古実会で西の宮です。
その前に、牡鹿法印神楽古実会の由来について宮城県の民俗芸能1より
「石巻地域(旧牡鹿郡)には旧藩時代、牡鹿十ヶ院と称する修験院があり、南境の正浄院、大瓜の常善院、高木の光妙院、水沼の文殊院、真野には観殊院と喜明院、沼津に宝性院と賢龍院、根岸の開明院、渡波の常楽院であった。
これらの法印たちが相集って各祭礼に際して祭式のあと法印神楽を演舞してきたもので、大正元年に当時稲井村根岸の周明院の津田主税法印によって記された文献によると、この法印神楽は元和3(1617)年あたり、或いは正徳5(1715)年から再興されたものとあるが、その確認はできない。
文化文政のころに最も隆盛を極めたのち、明治維新の神仏分離令によって中断したが、明治12年8月に各院によって牡鹿古実会が結成されて法印神楽が再興されたという。
本山安次博土が昭和4年に石巻中学に赴任された翌年の昭和5年は石巻牧山の鷲峰山長禅寺中興の祖片桐栄洋法印250年遠忌に当たり33日間も大祭が続けられ神楽が行われたらしいので、本田氏はこれらと親しく接し感銘を受けられていたと思われ、『陸前浜本」を編まれる基となった。
明治12年の神楽再興は牧山の零羊崎神社宮司の桜谷可守師と根岸周明院の津田雄記法印等とで実を挙げられた縁もあったか、それ以来この神楽は牧山の宮司によって代々主導されていたようであるが、大正元年のころは現石巻市内域となった、沼津から2、真野2、渡波1、根岸1、水沼1、闘木1、大瓜1、南境1の10人の法印たち(本山派が多いという)によって伝承されていた。
昭和50年ころは会員が15名ほどいたが、現在は沼津から6人、渡波から1人、そして桜谷会長と8人となった。戦後生れは2人であるので後継者不足は否めない。石巻市湊小学校や沼津小学校等で履修を行い、大分上達したと聞いていたが、青年たちの後継者養成が急を要す。
舞台の大乗飾りを復興させ得る指導者も居り、四節の「きりこ」も作成できる。仮面、装束等も秀れたものが揃っている。
零羊崎神社境内には常時、法印神楽用の仮設舞台が設らえてあった。石巻市で行われる文化祭や神楽大会等には毎年出演している。
昭和46年に東北映画社により牡鹿法印神楽によって「白露」と「魔王」が8ミリ映画に記録されている。」
とのことで宮城県指定無形民俗文化財及び文化庁の記録作成等の措置を講ずべき無形民俗文化財として選択されている。
現代表は櫻谷鎮雄さんです。
さて、演目の西の宮
この演目は法印神楽では釣弓という豊玉姫について物語られたもののうちの一つ。
釣弓三曲とは蛭児、釣弓、鵜葺草葺不合命出現を言い、伊弉諾伊弉冊の第三子である蛭子の神から海幸山幸そして天孫邇邇藝命へとつながる神話を語っている。
翁の姿をした蛭児が、釣竿で鯛を釣り、自らの生い立ちと西の宮の由来を語る。
また、法印神楽での特徴は蛭子が釣り上げる「切紙(キリコ)」である。
浜の法印では沢山の切り紙が伝承されていて、正月には氏子が神社から種々の切り紙を買い求めて神棚に飾るという風習がある。
鯛を象った切り紙に観客がご祝儀の紙幣を結びつけて蛭子に釣り上げてもらうことで大漁祈願をするというものである。
この鯛の切り紙は舞が終わった後で観客が一枚ずつもらって帰り神棚に飾るということだ。
見事魚を釣ったところで、釣竿を船の櫂にして、漕ぎながら幕入りとなす。
