達古袋神楽「屋島合戦」@2022民俗芸能による祈りと絆
さて本日は、2022年11月5日に行なわれた民俗芸能による祈りと絆から達古袋神楽で屋島合戦です。
その前達に達古袋神楽さんの由来について
「明治二年の火災で記録を失ったので資料はないが伝える所によれば、八幡神社は田村麻呂公の勧請といい、康平五年(一○六二)八月一五日再建の棟札もある。
八幡山常学院は、京都本山派の相模坊が、文明一○年(一四七八)開設し、古くから八幡神社の奉納神楽として法印神楽が舞われて来た。
なお弘化年代(一八四四)に神楽も盛んになり、明治以降には、胆沢地方、宮城県北、栗原郡、玉造郡等にも伝えられた。
明治以前は常学院が宮元となり指導に当ったが、以降の歴代師匠は、明治一一年小野寺伊三郎、明治二○年阿部徳太郎、明治二五年小岩勝蔵、明治三○年小岩利右エ門、小岩彦三郎、大正九年~昭和三八年まで阿部長治、以降阿部孝が指導に当り後継者の養成に当った。」
とありますが、現在の代表は小岩恭一さんです。
さて屋島合戦忠信兄継信尋ねの場です。
幕出し歌は 〽 センヤー 義経はヨー 屋島ぞさして急ぐなりホー 急ぐなりホー
―の谷の含戦に敗れた平氏は、四国屋嶋に逃げる。
義経は平氏の能登守教経と戦いますが遥か沖にと取り逃がします。
戦が終わって従者の佐藤継信の姿が見えないことに気づき、継信の弟を呼び出します。
佐藤忠信です。
あたりは暗くなり、忠信は戦い敗れた人々の亡骸に念仏を唱えながら刀を杖に兄継信を探すとかすかな兄の呼ぶ声を聞きようやく兄上を探しあてる。
継信は父に「一の矢、二の矢は手で受けても、三の矢は必ず切り落とせ」と教えられたが、功名を残したいという思いからこれを守らず三の矢を手で受け、これが管矢で瀕死の重傷を負う。
負傷した継信は最期の別れに「主君義経公に会いたい」と忠信に背負われて義経公の待つ高松が峰の陣屋へと向かう。
継信はこの世の形見として、義経公に重宝の剣を、忠信には鎧を遺して辞世の句を残して息絶えます。
〽 東より 四国屋嶋の果てに来て 君に命を捧ぐ継信
南無阿弥陀仏
かくて佐藤嗣信の御霊を弔う義経主従でした
動画でどうぞ
