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2022.07.19 | Comments(0) | Trackback(0) | カテゴリ神楽

中野神楽「義経公一人舞」@2022源義経公生誕祭

さて本日からは、2022年7月18日に行なわれた源義経公生誕祭での神楽奉納についてリポートしていきます。


源義経が奥州平泉へ下向する際に立ち寄ったという伝説から生まれたこの祭事ですが、地元の皆さんの義経にかける熱心な信仰がよく見て取れます。

さて、この場所、栗原寺(及び久須志神社)について7,境内の表札にはこう記されています。

「安永の御書上である「栗原風土記」用明天皇二年587年の開山で、白馬山栗原寺と称し、天台宗奥州総本山であり、金堂(本堂)を中心に三十六坊に分かれ、七堂伽藍を備え、僧侶一千人を配していた。その後、たび重なる戦乱で焼失し、平泉の藤原氏滅亡後廃寺となったが元禄二年1698年仙台の恵沢山竜法寺宥日和上が再興し、宗派を真言宗に改め、醫作山上品寺となると記す。栗原寺の名を古くは鎌倉期の正史「吾妻鏡」や「義経記」に識ることができる。特に「義経記」には、源義経が源頼朝に追われ、金売吉次に伴われ藤原秀衡を頼っての「東下り」の際栗原寺に一泊し、藤原秀衡の迎えとともに栗原寺僧兵五十人の護衛を従え平泉の中尊寺入りをしたと記される。由緒ある寺であった。これまで栗原寺を実証する資料がなく、「幻の寺」として解明は謎に包まれていたが、昭和三十七年十一月に開始された東北大学高橋富雄教授を中心にとしたグループの発掘調査により、この境内に栗原寺金堂跡が確認され、にわかに脚光を浴びた。また、栗原寺脇仏と推定される平安後期の一木彫、観世音菩薩立像や如来座像等も安置され、往事の栗原寺の壮大な伽藍配置を彷彿とさせる。」

とあり、古くは平泉中尊寺と並んで天台宗の重要な寺であり、現在では地域の信仰の中心となっているようです。

この生誕祭は、この日が義経の誕生日という訳ではなく、平成11年に神奈川県藤沢市にある義経の首塚と栗原市にある胴塚の霊を合祀したことを発祥として、以来毎年4月に散華会、その八十八日後の7月に生誕祭をおこなっているということです。

栗原寺本堂内には義経の亡骸に擬した胴具足と兜が安置されています。



奉納神楽の最初は、中野神楽による義経公一人舞です。

中野神楽の由来について定本より

「明治五年、佐竹幸吉が庭元となり岩手県西磐井郡厳美村、三輪流山谷神楽の師匠を招き指導を受け、中野神楽を創設した。
二代、三代とも山谷神楽の師匠の指導を受けた。現在は、佐竹精一郎が指導に当たっている。
、初代庭元佐竹幸吉、現在の庭元斉藤新一郎は四代目である。」

とありますが、現在の代表は佐竹正義さんです。

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演目は義経公生誕祭に因んで義経一人舞です。
一昨日の栗原神楽と同じく栗原市栗駒沼倉の菅原次男氏という、この義経生誕祭を起請した方が創作した演目です。
義経一人舞は、高舘落城に際して、源義経が兄頼朝に責められる不遇を嘆きながらも、世話になった藤原三代の恩と、みちのくの民の平和のためえに自らの首を差し出す覚悟を詠いながら舞納めるというものです。

舞そのものより、哀調を帯びた口説きが古の奥浄瑠璃にも通じるものがあり、南部神楽らしさを感じさせます。

20220718105106IMG_6797.jpg

義経のセリフで「奥州の民と、相州の民が集いて我を思う」というところで舞台後方の兜と鎧を合体させて義経の霊を慰めるという趣向になっているようです。

20220718105304IMG_6801.jpg

動画でどうぞ


テーマ:伝統芸能 - ジャンル:学問・文化・芸術

2022.07.19 |

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