幸田神楽「鶏舞」@2021島の堂観音奉納
さて本日からは、2021年9月5日に紫波町南日詰にある行なわれた嶋の堂観音の縁日に奉納された幸田神楽について掲載していきます。
ここ嶋の堂観音は、南北朝時代に斯波家長がこの地を治めた時、家臣の梁田氏に同行していた僧が五郎沼の中島に霊験を覚え、千手観音を祀ったのがこの観音堂の始まりと伝えられ、享保元年(1715)に巡礼者が不便するとのことで盛岡藩から再興が認められ現在の地に移されたものという。
現在の堂宇は明治5年に再建されたものというが、敷地内には乾元2年(1303)の紀年銘が刻まれた板碑を始め、念仏碑や御詠歌供養碑など多数の石碑が建っている。
その観音堂に増設する形式で神楽殿が設えてあるが、このスタイルはこの紫波矢巾周辺でよく見かける。
さて、幸田神楽の奉納は鶏舞から始まりましたが、その前に幸田神楽の由来について
「幸田神楽は幸田地区に鎮座する八雲神社の奉納神楽である。「幸田神楽本」によれば、その由来について藤原秀衛の三男泉三郎忠衡は、平泉藤原氏滅亡の際落ち延びられ、此の地に隠れ住まわれた。 矢沢地域の灌漑用水を確保するために幸田川を塞ぎ止めて、溜池を築く工事をはじめたのであるが思うように工事が進まず思案の末、忠衡公が信仰している、祇園牛頭天王(八雲神社の祭神)を祀りて工事の無事完成を祈って神楽を奉納した。
また昔、幸田川には上と下に二つの大きな沼がありこの沼には、それぞれ、主(化け物)が住んでいた。この沼を埋め、田を作り堤を作った為に、主達は住みかを失い、その怒りを鎮めるために、堤の西北(乾)方に神楽場を定め神楽を奉納したところ、主達の怒りが鎮まり平和が戻ったといわれ、それ以来毎年神楽場で神楽を奉納したとあり、古い時代からこの地に神楽が存在していることを語っている。その後、天保年間に早池峰岳神楽を習得して現在に至る」ということです。
最初の演目は鶏舞
「鶏舞は「伊弉冉尊・伊弉諾尊・天宇受売命・思兼命の四種を想像したる舞にて四人にて舞いたるもの、今は略して二人にて舞うなり」と岳神楽の台本には書いてある」と岩手の民俗芸能山伏神楽編の中で森口多里が引いているとおり、今の早池峰神楽で鶏舞は二人舞となっているが、遠野市の神人神楽などでは四人での鶏舞が舞われている。
さらに、本田安次は山伏神楽・番楽の中で、「(番楽の)鶏舞は考えようによっては一種の振鉾とすることもできよう。しかしもっと別の意味もこの舞にはあるらしい。雌雄の鳥が出て、次第次第に睦び合う様を仕組んでいる。この鶏舞と次の御神楽とは別曲に相違ないのであるが両者入り混じっている所がある、すなわち早池峰神楽でいう鶏舞は実はもと御神楽であったと思う。」と解説しているとおり、秋田の番楽の鶏舞は二羽の鳥が舞い遊ぶ様が描かれているのに対して早池峰神楽の鶏舞は痕跡は残しているが、洗練された舞となった分だけより一層象徴的な抽象舞となっていて、全体の感じも御神楽(場を清める祈祷舞)になっている。
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