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2021.07.18 | Comments(0) | Trackback(0) | カテゴリ神楽

栗原神楽「義経一人舞」@2021源義経公生誕祭

さて本日は、2021年7月18日に宮城県栗原市にあります栗原寺で行われました源義経公生誕祭から栗原神楽で義経一人舞です。

源義経が奥州平泉へ下向する際に立ち寄ったという伝説から生まれたこの祭事ですが、地元の皆さんの義経にかける熱心な信仰がよく見て取れます。

さて、この場所、栗原寺(及び久須志神社)について7,境内の表札にはこう記されています。

安永の御書上である「栗原風土記」用明天皇二年587年の開山で、白馬山栗原寺と称し、天台宗奥州総本山であり、金堂(本堂)を中心に三十六坊に分かれ、七堂伽藍を備え、僧侶一千人を配していた。その後、たび重なる戦乱で焼失し、平泉の藤原氏滅亡後廃寺となったが元禄二年1698年仙台の恵沢山竜法寺宥日和上が再興し、宗派を真言宗に改め、醫作山上品寺となると記す。栗原寺の名を古くは鎌倉期の正史「吾妻鏡」や「義経記」に識ることができる。特に「義経記」ニは、源義経が源頼朝に追われ、金売吉次に伴われ藤原秀衡を頼っての「東下り」の際栗原寺に一泊し、藤原秀衡の迎えとともに栗原寺僧兵五十人の護衛を従え平泉の中尊寺入りをしたのと記される。由緒ある寺であった。これまで栗原寺を実証する資料がなく、「幻の寺」として解明は謎に包まれていたが、昭和三十七年十一月に開始された東北大学高橋富雄教授を中心にとしたグループの発掘調査により、この境内に内地に栗原寺近藤跡が確認され、にわかに脚光を浴びた。また、栗原寺脇仏と推定される平安後期の一木彫、観世音菩薩立像や如来座像等も安置され、往事の栗原寺の壮大な伽藍配置を彷彿とさせる。

とあり、古くは平泉中尊寺と並んで天台宗の重要な寺であり、現在では地域の信仰の中心となっているようです。

この生誕祭は、この日が義経の誕生日という訳ではなく、平成11年に神奈川県藤沢市にある義経の首塚と栗原市にある胴塚の霊を合祀したことを発祥として、以来毎年4月に散華会、その八十八日後の7月に生誕祭をおこなっているということです。

栗原寺本堂内には義経の亡骸に擬した胴具足と兜が安置されています。
この後、場所を移した会場でもこれらが使われています。



さて、お待ちかねの神楽奉納です。

この日の奉納は地元の栗原神楽さんです。

その前に、栗原神楽さんの由来については定本より

「明治一二年三月三一日、栗原悦之助が神道事務局に神楽の届出し承認を得た文書がある。
岩手県萩荘村市野々の自鏡山山伏神楽の指導を得たといわれている。
大正時代に復活、中断した。昭和五年、栗原の佐藤正吉が指導し再興する。その弟子代表の佐藤左吉に引継がれ現在に至っている。初代庭元栗原悦之助が中断後を再興した。」とあります。

現在の代表者は佐藤敬さんです。

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演目の「義経一人舞」は、栗原市栗駒沼倉の菅原次男氏という、この義経生誕祭を起請した方が創作した演目です。

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高舘落城に際して、源義経が兄頼朝に責められる不遇を嘆きながらも、世話になった藤原三代の恩と、みちのくの民の平和のために自らの首を差し出す覚悟を詠いながら舞納めるというものです。

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栄枯盛衰、生者必滅の諦念を義経を通して語っているこの演目は、能楽の負修羅の夢幻能にも通ずる。
兄頼朝との確執の末に奥州平泉へ降るも、頼みとした泰衡にも裏切られ、自らが愛した奥州平泉の民たちを思って自害した義経の霊位を慕う栗原の民の気持ちを象徴する祭事です。

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動画でどうぞ


テーマ:伝統芸能 - ジャンル:学問・文化・芸術

2021.07.18 |

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Author:祭りの追っかけ
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