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2021.07.17 | Comments(0) | Trackback(0) | カテゴリ諸芸

西沢目薩摩奴踊り@2002江刺梁川松尾神社祭

さて本日は、古いVHSテープを整理していた中からチョイス その4。
松尾神社秋季大祭での芸能奉納から西沢目薩摩奴踊りです。

この時は、保存会の方の話によると37年ぶりに踊りが復活したという記念すべき奉納でした。

西沢目は西沢目大名行列としての芸能も保持している地区で、5~6年毎に行われる大名行列では奴がお供をして道中唄や槍を投げて交換するなどしています。

由来について「梁川西沢目薩摩奴踊歌」より抜粋

「奴子ノ起因今ヨリ凡ソ三百八十五年前文禄元年紀元二千二百五十二年太閤秀吉公三十万ノ武将ヲ·ヶ加藤清正小西行長ヲ先鋒トシ朝鮮ヲ征服スル、儀ナリ奈良ノ都ニ於テ観兵式ヲ舉行ス其ノあと、名所三笠山ノ月見、竜田川辺ノ紅葉狩リヲ行へ祝宴(送功ノ意)ヲ催シヲリ其の時奴子躍へ遊バサル然シテ愈々渡航シ自ラテ指揮シ所々ニ転戦シ戦ヘバ必ズ勝チ遂ニ王城ヲ陥レ目的ヲ達シ帰国ナサレタリ此ノ時凱旋式ヲ津ノ国天下茶屋ニ於テ行へ給フ此ノ時國々ノ諸大名相寄リ祝宴プ開催セラル家来下部ニ至ル迄大イニ喜ビ銘々御祝儀ノ爲メ諸藝ヲ尽シタリト云フ此ノ時渡鮮祝ノ際躍タル奴子舞ヲ思へ出シ長柄ヲ振テ皆躍リ甚大ニシテ幕ヲ閉チサセ給フ公ハ天下ヲ納メ外征ノ目的ヲ達シ御年六十三オニシテトゥくムナシク成ラレマシタ此ノ奴子踊ハ公ノ宴ニ御始メニナリ大閤様ラしのびツ、特世ニ傳タワリタルモノナリ大閤様ハ尾張ノ國愛知郡中村ト云フ農家ニ生レ十六才迄ハ日吉丸卜云へ亦木ノ下藤吉郎トモ呼バレマシタ十八才ヨリ織田信長ニ仕ヘテ戦役ニ服シ智勇他ニ勝レ次第二重ク用ヘラレ遂ニ天下ノ人トナリタル御方ニテ御座イマス(以上中略書ナリ)」

要するに太閤秀吉の朝鮮出兵の際に戦勝して帰国した凱旋祝で奴どもが踊って褒められたことから始まったということのようです。

薩摩奴踊は、旧南部藩領内を中心に分布し、北は紫波町から南は江刺周辺までであり、岩手県内でも伝承団体数が少ない芸能です。
旧江刺市内でも、梁川の東沢目と西沢目、歌書、西風そして広瀬の軽石に伝承されている(廃絶団体含む)。

伝播経過をたどると最も古い文献は花巻市の「二郡見聞私記」第七「川口町祭の始まり」(天保6年(1835年)序文)にある。
それによると、慶長年中の祭の際に領主の北松斎の前で踊ったという記述がある。
次に慶長6年(1601年)の立花奴踊(北上市)の伝書では南部氏が和賀の岩崎城一揆を討伐した際に泰平を祈願して踊らせたとあり、更に天保14年(1843年)には柧木田に相伝し、次に上口内に文化元年に伝承したとある。
明治以前は同じ江刺郡であった北上口内から江刺広瀬の軽石に伝承したのは明治42年(1909年)とある。
芸態や唄などをみるとこれらの伝承団体から江刺梁川に伝わったと見て良いと思います。



奴踊や八士踊と称される武士舞の風流踊は、大名行列から派生したものや神幸祭の練行列に供奉するものとして広まったということです。

奴踊りは大きくは槍踊と手踊の2種類があり、庭入りすると誉め唄に続いて槍を持っての踊り一番庭を演ずる

2021071702.jpg

次に槍を地面に置いて手踊となる

最後はきりぎりすの唄とともに引き葉で納める

2021071703.jpg

動画でどうぞ

テーマ:伝統芸能 - ジャンル:学問・文化・芸術

2021.07.17 |

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Author:祭りの追っかけ
祭・・・それは祈り、畏れ、そして縋り付くばかりの信仰、神人共生の歓びの象徴。さて、明日のエネルギーの糧を求めに彷徨おう。

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