軽石薩摩奴踊「一番庭、三番庭」@2020江刺民俗芸能フェスティバル
さて本日は、江刺民俗芸能フェスティバルから軽石薩摩奴踊で一番庭と三番庭の一部です。
由来については江刺の芸能(昭和56年江刺市教育委員会)より抜粋します
「甲州南部家家中本田友之助銘の巻物が盛岡南部家家中坂本六之助に渡ったのが文禄4年(1595)のこと。
そこから立花北館屋敷掃部に亨保12年(1727)に伝授され、寛政12年(1800)に柧ノ木田村飯森正連院へと伝承され、文化元年(1804)に上口内草刈場屋敷の栄之助へも伝授され同日に上口内庭元利三郎へも伝承される。
その後、文化5年(1808)草刈場屋敷久兵ヱ、文化11年(1814)大越田上万右ヱ門、天保14年(1843)と伝承されて、明治10年(1883)に口内草刈場菅野嘉吉へと伝わり、それを師匠として明治43年(1910)に軽石初代の菊池高左衛門へ相伝された。」
ということです。
奴踊や八士踊と称される武士舞の風流踊は岩手県では旧南部藩領内に多く分布していて、大名行列から派生したものや神幸祭の練行列に供奉するものとして広まったということです。
北上では口内の他に立花や後藤にも奴踊があり、南部藩との境にある江刺でも同じ広瀬の歌書や梁川の西沢目にあり現在も活動している。
現在は地元広瀬の西光寺の盆供養での奉納が常となっている。 ⇒軽石薩摩奴踊 西光寺萬燈供養会奉納
演目は、一番庭、中庭、三番庭があり、それぞれに槍踊りと手踊りとがある。他に舞い込んだ寺社や家での誉め歌が数々ある。
踊りには囃子方の歌がつくが、その歌については「軽石薩摩奴踊 極意並歌詞記傅」から飯島一彦氏が意訳したものが「歌のちから」(2003.3 國學院大學日本文化研究所 編)に掲載されていますので、一部引用します。
一番庭の槍踊の歌詞は次のとおり
〽 鳥ならば 鳥ならば
ノーホホホン アーソレハハハ
様のあたりで 巣をかけて
いつも 聞きたや 様の御声 その声
可愛い様をエー
様の我が仲 すっと切れたよ しんきょ
可愛い様をエー
この意訳では、鳥を男(薩摩奴)、様は妙齢な女性としていて、粋な薩摩奴が女性に惚れた様をうたったものという
続いて奴が唐団扇を置いて手踊りとなる
〽 いつも笹野(酒呑*)で 繁り松山 言わ(祝*)しゃんせ ハア
唐も 日本の大和は 笹の上なる
露の有形じゃと 当世世諺から
言わしゃらすえ サアサ おしゃそのすわいの ソレハハハ
当世流行りせ ハア 石梅花皮の
大鍔をずるり抜き 御免なれ
お宿はどこ 山の殿
弁慶だんべい
今となっては歌詞の意味も不明な部分が多いものの、江戸期に町中を闊歩した六方組が奴踊りの原型という説もあるとおり、
粋で剛毅な雰囲気が伝わってくる武士舞の一種といえる。
*ブログ主注釈
また、踊り組の相伝式には「供養の四門」が歌われるという。
ということは四門を潜る儀式的な相伝式を執り行うということであろう。これは周辺芸能である鹿踊や剣舞からの影響と推察する。
「供養の四門」
〽 参り来て 参り来て これのご門を見申せば 可愛い様を 白銀扉に 黄金の閂 しんきょ
いずれ長く保存していきたい芸能である。
動画でどうぞ
