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2020.08.20 | Comments(0) | Trackback(0) | カテゴリ諸芸

軽石薩摩奴踊 西光寺萬燈供養会奉納

さて本日からは、8月15日に奥州市江刺広瀬の西光寺で行われた萬燈供養会のリポートとなります。

この日は軽石獅子躍奉納を目的に行ったわけですが、最初に住職と話をしていて奴踊も奉納しますよ、ということで大変僥倖な萬燈会参観となりました。

軽石薩摩奴踊の由来は「江刺の芸能」より

「明治四十三年 (1910) 北上市ロ内町(旧江刺郡福岡村字草刈場)菅野嘉吉より伝わったもので、文禄四乙未(1595)、甲州木田友之助秋則判の真筆一巻を、盛岡家中の坂本六之助源真秀が享保十二丁未 (1727) 年秋|に書き写し与えられ、立花村北館屋敷掃部、そして抓木田飯森正連院、上口内村草刈場屋敷栄之助、文化元甲子年 (1804)に上口内村庭元利三郎に巻物を納めた。
文化五戌辰年 (1808)、草刈場屋敷久兵ェに皆伝読み聞か|せ、文化十一戌年(1814)、大越田上万右エ門にも皆伝の上読み聞かせた。次に上口内村庭元理作羲昌から天保十四卯年 (1843)、中根屋敷、寅蔵へ伝わる。それから庭元俊治藤原義英より元治二丑年(1865)、草刈場向茂左ェ門に、明治十六未年(1883)、福岡村草刈場屋敷菅野嘉吉に巻物一巻が授与された。
庭元近藤利蔵、そして明治四十三年菅野嘉吉より菊池高左エ門へ皆伝極意巻謹写譲渡される。
福岡村庭元近藤利蔵より広瀬村庭元菊池藤次郎へ、一番奴菊池高左ェ門 (高平屋敷)が軽石奴の始祖となる。
菊池高左ェ門から長男高一に引き継がれ現在に至る」
ということです。

お寺での供養の読経が終わる頃合いを見計らって、奴衆が寺の門前に構えて門誉め唄



山門から境内への階段には、檀家の皆さんが物故者名を書いた萬燈を飾っています。

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薩摩奴踊は、旧南部藩領内を中心に分布し、北は紫波町から南は江刺周辺までであり、岩手県内でも伝承団体数が少ない芸能です。
旧江刺市内でも、梁川の東沢目と西沢目、歌書、西風そして広瀬の軽石に伝承されている(廃絶団体含む)。

奴踊や八士踊と称される武士舞の風流踊は、大名行列から派生したものや神幸祭の練行列に供奉するものとして広まったということです。

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国内でも南は沖永良部島から北は青森県五所川原まで点在するが、当地の薩摩奴踊は独特の芸態をもっている。

それは装束においても九曜紋をつけた羽織を着て、唐団扇に二本差しという武士の出で立ち。
そして、踊りながら歌う歌詞にも「六方言葉(奴言葉)」で綴られていることだという。

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踊りの順番は、一番庭、中庭、三番庭とあり、その3つの中に共通して槍踊、手踊、引きはが入れ込んである。

踊りて自身が歌う歌詞は30首ほどあり、最初は鳥ならばで始まり、最後はきりぎりすの歌で終わる。

〽 鳥ならば 鳥ならば ノーホホホン アーソレハハハ
  さまのあたりに 巣をかけて ノーホホホン アーソレハハハ
  いつも聞きたや さまの御声 ヤーレ かわえさんまオーエ
  様の吾が仲 すっと切れたや しんきょ ヤーレ かわえさんま オーエ

奴踊を見ていていつも思うのは、自分が江戸時代にタイムスリップした感じがするということです。
参勤交代の行列がその日の宿に着いて、一息ついた奴の下級武士たちが旅籠の安酒を飲みつつ歌い踊る姿が目に浮かぶものです。風流だ!

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動画でどうぞ

テーマ:伝統芸能 - ジャンル:学問・文化・芸術

2020.08.20 |

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祭・・・それは祈り、畏れ、そして縋り付くばかりの信仰、神人共生の歓びの象徴。さて、明日のエネルギーの糧を求めに彷徨おう。

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