石鳩岡神楽「八嶋の舞」@2008石鳩岡神楽交流会 in 雲龍庵
さて本日は、平成20年11月16日に花巻市東和町の雲龍庵にて開催されました石鳩岡神楽交流会から石鳩岡神楽で八嶋の舞です。
石鳩岡神楽の由来について
「石鳩岡神楽とは岩手県花巻市東和町石鳩岡に伝わる山伏神楽のことである。天保五年(1834)、早池峰岳神楽の小国常盤守より伝授、独立免許されたものである。以来170余年その間には火災による道具の焼失、あるいは座中の欠員等、幾多の危機に遭遇するも、師匠岳神楽と同一に舞える古い舞技を伝えている。そのため。南部家の家紋の双鶴の紋章を幕類装束等―切に使用することを許され、併せて木杯を賜り以来毎年南部家の祭神桜山神社の専属神楽として例大祭に神楽を奉納している。
また、早池峰神社から神楽の存続に対する功績により表彰されている。昭和58年 ∃一ロッパ芸術協議会による、日本特集芸術祭に国際交流基金の派遣団体のうちに選ばれ渡欧―ヶ月にわたり六ヶ国公演する。平成23年3月 国の記録作成等の措置を講ずべき無形文化財に選択される。」
とあります。
さて、八嶋の舞ですが、山伏神楽のジャンルでは武士舞(番楽)のひとつに数えられています。
この舞曲の原典は能楽の八島とされていて、主人公は源義経の亡霊とあります。また、複式夢幻能にして勝修羅モノです。
幕出しは 〽 ようよう急ぎゆくほどに ようよう急ぎゆくほどに 八島の浦に着きにけり
直面に烏帽子をつけた舞手が二人出て相舞となり、一舞した後に物語の舎文がかかる
八嶋の舞の筋立てについては次の通り
都の僧が旅の途中讃岐八島の浦をとおりかかり、年老いた漁師に一夜の宿を乞う。
旅の僧が物語を頼むと漁師はむかしこの地でおこった源平合戦の物語をはじめる。
元暦元年三月十八日、海に浮かぶ平氏の軍団と、それを攻める源氏義経軍との合戦である。源氏の三保谷四郎と平氏方の景清との組討(「しころびき」という)の模様や、義経をまもって敵の矢にあたってたおれた腹心佐藤継信、その矢を射た平教経の愛童菊王の死など、漁師があまりにも詳しく語るので都の僧が不審を感ずると、漁師は「潮のおつる暁ならば修羅の時になるべし。その時はわが名なのらん。」と。
その夜、都の僧の夢に源義経が現れて合戦の模様と、修羅道に落ちた自らの苦しみを語って消え入る。
あとには朝の松風が吹くばかり。という筋立てです。
屋島合戦における義経の弓流しや、悪七兵衛景清と美尾屋十郎の錣引き、佐藤継信が管矢を射抜かれる場面やその管矢を献じた菊王丸の討ち死になどを滔々と物語る舞曲で、他の芸能でも部分を抜いて一曲として上演しております。
動画でどうぞ
