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2020.04.05 | Comments(0) | Trackback(0) | カテゴリ神楽

岩手山神社山伏神楽「鳥舞」@2010田頭稲荷神社例祭

さて本日は、平成22年9月26日に行われた八幡平市田頭鎮座の稲荷神社例祭で奉納された岩手山神社山伏神楽で鳥舞です。

この神社は、大更の西方、西根中学校のそばにありました。
ほんとに小さな神社でしたが、神事には氏子さんたちが参列し、神楽が奉納された他には色々と催し物もあったようです。




さて、岩手山神社山伏神楽です。

旧南部藩領内の山伏神楽は、大きく分けて三つの流れがあり、早池峰系統と二九戸系統、そして岩手山周辺に敷衍する神楽です。

早池峰山=東根に対して岩鷲山(岩手山)=西根といわれる一帯、今で言う盛岡市から八幡平市には本山派修験による神楽が行われていたようです。

この岩手山神社山伏神楽は岩手山への登山口を手掌していた修験者大蔵院が始めたものという。

西根町史には「大蔵院という修験がはじめた神楽で,昔は三阿弥陀神楽と呼ばれていた」とある。

DSC00303.jpg

岩手山神社山伏神楽では伝承本なども無く、また確かな調査報告も無い中で、中嶋奈津子氏が「岩手山神社山伏神楽の近現代」と題した論文をまとめているので、参照していきます。

神楽を始めた大蔵院(旧平舘村・三阿弥陀家)は、代々厳鷲山北口の別当であったが寛文元年(1661)より大蔵院の弟子東学院に別当職を任せる。
神楽の庭元を務めていたために,大蔵院の神楽は三阿弥陀神楽と呼ばれた。
.大蔵院の配下で神楽を担っていたのは大蔵院縁(弟子・血族か)の法性院の一族と伝えられる。
慶長16年(1611),初代盛岡藩主南部利直公の時に盛岡城下中ノ橋完成の渡り初めの際,大蔵院一党による祈祷と権現舞が行われ,褒美を下賜された記録がある(法性院作成「拝領物ノ事」)。元禄2年(1689)には南部重信より十二石拝領。
修験としての大蔵院は47 代まで襲名した。最後の47 代大蔵院(大蔵坊)は1870(明治3)年の神仏分離令により,神主田村夛門と改めて「陸中國岩手郡平笠村岩手山神社明細書」を盛岡県役所に提出している。その後,田村夛門は神職を離れ1881(明治14)から6 年間,平舘や大更の小学校教師の職に就く。
さらに共同経営のために東京に進出するが,1898(明治31)年に一時帰村。1912(明治45)年に再び事業を起こすために一家は平舘を離れて北海道に移った。のちに夛門の孫が遺品の刀を平舘・田村家に持参した際に,夛門が晩年北見で亡くなったことを伝えられる。大蔵院に関わる文書は複数残されていて平舘・田村家で保管していたが,1976(昭和51)年の火災で焼失した。そのいくつかは『三阿弥陀家系図』の中に写真掲載されている。

とあるが、その後この神楽は寄木から再び平舘に託されることになるが、そのことについては明日の記事としたい。

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兎にも角にもこの日の奉納は鳥舞と三番叟で、いずれも神楽を継承してる子どもたちの舞でした。

DSC00299.jpg

動画でどうぞ



場所はここです、祭日は9月29日です。

テーマ:伝統芸能 - ジャンル:学問・文化・芸術

2020.04.05 |

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祭・・・それは祈り、畏れ、そして縋り付くばかりの信仰、神人共生の歓びの象徴。さて、明日のエネルギーの糧を求めに彷徨おう。

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