日高見流浅部法印神楽「村雲」@2019第15回登米市民俗芸能大会
さて本日は、第15回登米市民俗芸能大会から日高見流浅部法印神楽で村雲です。
日高見流浅部法印神楽さんの由来は
室町時代の康暦年中(1379~ 1381)、瀧澤道胤が岩手県東磐井郡藤沢町西口にあった不動院に神楽を伝えたのが「西口流神楽」と称されるもので、寛保年間(1741~ 1744)に上沼八幡神楽へ伝承され、延享3年(1746)、京都賀茂出身で東叡山の峻学が東北地方巡視の折、上沼妙学院(白幡家)方に滞在したとき、良真・自海法印が笛・太鼓の唱歌を学び、元付十二春の神楽を伝授されたのが加茂流神楽と言われ、江戸時代、妙覺院を中心とした六ヶ院の修験集団により神楽が演じられ、文化・文政の頃には加わる法印も増え十三ヶ院を擁するに至り、明治初年まで盛んに行われてきました。
明治初年の神仏分離令により修験院が解体され神楽の継承が難しくなったため、旧浅邊村の三壽院芳賀廣瀬法印は、明治5年(1872)、白山姫神社の氏子10名に五十番の神楽を伝授し、「日高見流神楽」と称して、今日まで連綿と伝承しています。この神楽は、「流神楽」と呼ばれ、全国でも登米市中田町の「上沼」と「浅部」の2か所にしか伝承されていない貴重な神楽です。
法印神楽は、陰陽道に基づく独特な手印を結び、特殊な足踏をし、複雑な多くの舞型を残しています。
昭和51年(1976)には「大乗飾り」と呼ばれる特殊な舞台飾りを復元させています。
とあります。
囃子方は法印神楽の形態ですが、太鼓は締太鼓が一台と笛が付きます。
なお、太鼓には太鼓唱歌がありません。(上沼法印神楽にはある)
装束は法印神楽風ですがより簡素というか古態なものを伝承しています。
采や大口の用い方も古いものを感じさせます。
演目の村雲はいわゆる八岐大蛇退治の物語で、邑雲とも群雲とも書きます。
「御神楽舞手続」では二十二番に位置づけられています。
初手には老夫婦のうちの手名椎がいでます。
続いて媼の足名椎が出ます
そして、老夫婦の娘で、大蛇の生け贄にならんとする稲田姫命が出ます。
そこへ、素戔嗚尊が出て老夫婦に語りかけます。
手名椎足名椎は、大蛇の害により娘を差し出さねばならない経緯を述べます。
さて、そこへ稲田姫を狙う八岐大蛇が出てきます。
全身に衣を裏返した赤い衣を纏い、両腰には笹竹の尾を付けて大蛇の様を演出しています。
素戔嗚尊が稲田姫を守ろうとして篭もらせた岩屋に八岐大蛇が襲いかかります。
稲田姫は観音経を唱えて守ろうとします。
そこへ素戔嗚尊が出て、大蛇を滅します。
最後に素戔嗚尊は、悪鬼の首を取り凱旋します。
動画でどうぞ
