胡四王蘇民祭より蘇民袋争奪戦 令和2年1月2日
さて本日は、1月2日に花巻市胡四王神社にて行われた胡四王蘇民祭についてです。
蘇民祭は花巻市矢沢鎮座の胡四王神社に慶応元年(1865)から伝わる祭事で、花巻地方に原因不明の難病が流行した際に蘇民将来の説話譚に基づいて病魔退散、災厄消除を祈願して始まったということです。花巻市の無形文化財であり、国の記録保存すべき民俗文化財にも指定されていて、数ある岩手県内の蘇民祭でも1年の最初に行われることで有名です。
祭事は、朝8時30分に麓の社務所にて餅つき、水垢離などをした裸参り連が、9時30分頃になると松明を手に山頂の胡四王神社を目指して行列し、本殿で浄火祭が斎行された後、蘇民袋の争奪戦になります。
以前は私も麓から一緒に登りましたが、今年も神楽撮影メインとしたので、境内での争奪戦のみ参観し、最後の一の鳥居までは見ませんでした。
本日の岩手日報によりますと取り主は石鳥谷町八重畑の小原広任さんということです。
浄火祭です。
「岩手の蘇民祭調査報告書」によると、岩手県内には廃絶したものを含めて30箇所ほどで蘇民祭が行われていたという。
その概要は旧正月七日から八日を中心に行われ、「裸参り」と「蘇民袋争奪」をメインとして様々な儀礼などがあり、蘇民袋に入った駒木や札を得ると無病息災・悪魔退散の護持が約束されるというものです。
同じ岩手県内でも水沢を中心とした伊達型と、花巻を中心とした南部型に大別されるという。
蘇民袋争奪に関してその由来を次のように解説している。
「北海にいる武塔神が、南海神の女子に求婚するために出かけたが、途中で日が暮れてしまった。
そのところに将来兄弟二人がいた。兄の蘇民将来は、いたく貧しく、弟の将来は家や倉をたくさん持つほど富んでいた。
武塔神は、宿を乞うが、弟はもったいぶって貸さなかったが、兄は宿を提供し、栗の藁で客座をつくり、粟飯などで饗応した。
宿り終わり、年を経た後、(武塔神が)八柱の子を連れて還来して云うには、「自分は(かって親切にしてもらった)将来の恩に報いたいが、汝の子孫は家にいるか」と質問した。蘇民将来が答えて云うに「私の娘と妻がおります」と。すると(武塔神は) 「茅の輪をもって、腰の上に着けておくように」と云った。
武塔神の云うとおりにしていると、その夜になって(茅の輪を着けた)蘇民の娘一人を置いて、ほかの全員を皆殺しにした。
そこで、(生き残った娘に)云うには「私は須佐之男の神である。後の世に、疫気が流行したならば、蘇民将来の子孫と唱えて、茅の輪を腰に着けている人は(疫気から)免れるようにしよう」と。
この備後国風土記逸文から引いた説話から蘇民将来子孫也と書かれた物を所持していれば諸難を免れるという利生を得るための祭りが起こったのではないか」ということです。
全国的にも冬に裸で争奪を繰り広げる祭りが偏在するものの、岩手の蘇民祭ほど多く伝承されている地域は他に類を見ないのではないだろうか。
今年の岩手の蘇民祭スケジュールは次のとおりですので、是非おでかけください。
動画でどうぞ
