秋田万歳「御国万歳・噺万歳・秋田音頭・桜万歳」@第28回秋田市民俗芸能合同発表会
さて本日は、第28回秋田市民俗芸能合同発表会から秋田万歳といきます。
秋田市に伝承されている秋田万歳は、現在では秋田万歳継承会がその保存を努めているが、昭和初期には40組の万歳師がいたという。
その中でも、つとに有名だったのは才蔵役の加賀久助さんと、太夫役の吉田辰巳さんで、現在活動中である秋田万歳継承会はその流れを汲む。
この日の演者は、才蔵役が継承会長の平川金一さんで、太夫役は宍戸恒雄さんでした。
さてこの秋田万歳を見たいがために今回の秋田市訪問となりましたが、そもそも秋田万歳とはいかなるものかということから紐解きます。
秋田万歳は「秋田風俗問状答」や「秋田紀麗」に記録され、また菅江真澄の「筆のまにまに」にも書かれているが、江戸後期から明治にかけて最盛期のようだった。
昭和40年代の加賀久助への聞き書きによると、万歳師たちは組合を組織しその傘下におかれ、多い時で30組余のコンビを組が活躍した。
12月1日には「カスミ(分担地域)」を決め。12月23日には新規弟子入りの試験(12番のうち、くじで当てた三番を演ずる)が行われる。
元旦から15日までを「一番カスミ」、16日から2月1日までを「2番カスミ」と称し、それぞれがメモした家々の順に、昼は一軒ずつ門付けをし、夜は泊まりこんで囃子や噺などを演じた。
秋田万歳の誕生は定かではないが、元禄年代に尾張万歳を変化させた江戸萬歳を久保田藩士が秋田へ持ち帰ったとも、また三河万歳が常陸を経て、慶長年中に秋田に伝えられたともいわれる。
秋田万歳での詞章ははじめから12番として移入され、そのまま今日まで伝承されている。
神力万歳 熱田神宮をうたう
本願寺万歳 西本願寺の寺院をうたう
家建万歳 家屋の新築
経文・御門開萬歳 法華経の伝来をうたう
大峰万歳 山伏修験用、神社用
お江戸万歳 江戸の上野をほめる
御国万歳 お江戸万歳の翻案
吉原万歳 吉原遊女散茶
桜万歳 桜尽くし
双六万歳 東海道五十三次をうたう
これらの固定された一二段の詞章に、秋田弁で語られる噺と囃子舞が付随するのも一つの特徴である。
噺は、 秋田に実在した「時の人」をそチ-フに、舞・踊り・唄を組み入れながらユーモラスな雰囲気で風刺したり、巷人のうっぷん晴らしの代弁をする。そのレパートリーも広く、 上方万歳のおかしさをしのぐ。
囃子舞はいろいろの物吉芸を取り入れ、大黒舞・エビス舞・シャクシ売舞・ツッツキ舞などを得意とするが、 やや卑猥ながらも哄笑を呼ぶコッカラ舞は名演技 である。
また鼓一丁で演ずる御国音頭 (秋田音頭)も古い味わいを残す。
秋田万歳は、県内の番楽・ ささらにも余興番組として付随していたが、一、二番(多くは御国万歳、扇万歳) がみられるくらいである。
<以上 本田安次・渡辺伸夫編著「祭りと芸能の旅1 北海道・東北」昭和53年刊行 より抜粋>
ということです。
下の画像は江戸末期の諸国風俗問状答に記された秋田万歳です
この日の最初は御国万歳
江戸の名物を太夫が唄い上げると同時に才蔵が軽妙に語るという形式ですが、これは違う節をそれぞれ進めながら最後はオチで合わせるという歌垣などと同じ形式を残すものです。
ひとしきり語り物をしたあとは余興芸的な御国音頭です。
この日は秋田音頭を古風に演じましたが、往時は門付けの軒先でこのように囃し踊ったものと推量されます。
最後は桜万歳、桜名所や花見の様子を目出度く唄い納めます。
動画でどうぞ
