長瀞猪子踊@第15回全国シシ踊りフェスティバル
さて本日は、第15回全国シシ踊りフェスティバルから長瀞猪子踊です。
シシ踊りフェスティバルというより本来は「山寺磐司祭り」です。
磐司祭りの由来とシシ踊りについては次のとおり
毎年の夏、八月七日(以前は旧暦七月七日)に行われるこの祭りは、昔から近郷近在から獅子踊りが奉納される祭りとして有名て、以前は踊りの組が十敷組も来山して踊りを競い合い、参詣の群衆は山内はもちろん、山麓にもあふれたという。
祭りは慈覚大師の山寺開山に因むもので、大師の来山以前、山寺一は磐司·磐三郎の兄弟の支配するところであった。
兄弟は狩を業としていたので山に住む多くの獣が兄弟の犠牲になった。しかし、二人が慈覚大師の教えに接してからは、己が殺生の罪の恐ろしさを知り、頭を剃って仏教に帰依した。
これによって、鹿子たちは兄弟の矢を逃れることができた。彼等はこれを感謝して大師に礼を述べたところ、それは磐司兄弟のお陰であるのて、兄弟に謝するようにとのことであった。
現在に続く獅子踊り奉納はこの由来に基づくもので、以前は最初に磐司を肥る岩屋の前で踊り、次に大師堂の前で踊るのが例であった。
そういう訳で、長瀞猪子は鹿ではなくイノシシの頭を戴いて踊る。
長瀞猪子踊について由来記より
「長瀞猪子おどりの由来は、長瀞創始以来のものでありまして、その昔名僧慈覚大師様が山寺山をお開きになられた時、偶然にも山鹿の先導を得て山上に登られ、当時村山地方が一大濁水であるのを御覧になり、思うよう、碁点山を切り開けば必ず拡大な土地が出来ること、とお考えになられ、人夫を督励して開さく工事を施しましたところ、全く一大耕地が出現し、長瀞は湖水中最も泥土深い所であったことから長瀞の名を付けられたといわれております。
此の肥沃な長瀞の耕地が出来たのも偏に慈覚大師様のお蔭によるものとして、大師様が先に山寺山をお開きになられるとき山鹿の先導にて山上に登られた事にちなんで猪子おどりを組織して、毎年七月七日山寺山に登り大師様にお礼に奉納したのが長瀞猪子おどりの初めといわれております。
長瀞長源寺の御本尊阿弥陀如来は慈覚大師の作であるところから、出発の時は長源寺で十念を受け、猪子頭に南無阿弥陀仏の名号をいただき、当時世話役であった奥山惣十郎氏宅でおどり初めをして出かけるのだそうです。
山寺立石寺では長瀞より奉納登山の連絡を受けると、同時世話方並に村の重達の方々が天童の大橋まで出て出迎えの式を行い先払を附けて道おどりの行列で登山、山寺村内沿道の民家では表に香を焚いて道を清め歓迎の意をあらわされたといわれております。」
ということです。
囃子方は、歌上げ、笛、太鼓です。
ササラ摺りです
鉦打ちは二人(本来四人)
猪子は八頭です。この日は四頭でした。
猪を象った頭には山鳥の羽を付けて、尾羽根を二本角のように差している。
短い前幕の中に小さな太鼓を付けているが、これを打つ場面は数少ない。
山形県内のシシ踊りでは、シシ頭に対して「精入れ」「精抜き」の儀礼を行うのが特徴という。
長瀞猪子の祭りの順序は次のとおり
4月第二日曜日に日枝神社祭礼にて踊る。
朝8時に長源寺に行き、頭につける六字名号の札を受け取る。
地区の公民館にて装束を付け、親獅子の頭を保管している奥山家の庭で踊ってから日枝神社へ行く。
保持する演目は道踊り、橋始舞、門始舞、入り庭、地や踏み、歌切り、狂い、後の狂い、後の歌切り、たてもの、暇乞い、帰り道踊り
この日演じたのは、道踊り、入庭、後の狂い、後の歌切り、暇乞い、帰り道踊りでした。
最も勇壮とされる「狂い」では、ササラを真ん中にして猪子と鉦打ちが激しく踊るもので、途中の大きなジャンプが見どころとなっているようです。
それにしても、ここの囃子は何となく十二座系の神楽拍子に似ている。
動画でどうぞ
