沢辺神楽「姉歯の松物語」@第42回みちのく神楽大会
さて本日は、第42回みちのく神楽大会から沢辺神楽で姉歯の松物語です。
その前に沢辺神楽さんの由来を定本より
「昭和四九年一○月、斉藤憲雄が庭元となり、城生野神楽の熊谷勤師匠を招き部落の青年達に神楽の指導を行い、沢辺神楽を創設した。
※昭和四八年発刊の金成町史によれば、南部神楽の流れをくむ神楽が各地区に組織されていたが、昭和二○年前にほとんど絶えた。
昭和三八年、平形神楽が解散に及び完全に消滅した。
岩手県の大門神楽、飯倉神楽の流れをくむもの、有壁神楽、藤渡戸神楽、赤児神楽、畑神楽、岩崎神楽、大原木神楽。
城生野神楽の流れをくむもの、平形神楽、姉歯神楽、下沢辺神楽、小堤神楽であった。」
ということなそうです。現在の代表は佐藤忠一さんです。
姉歯の松というのは地元栗原市金成梨崎にあり、平安時代の伊勢物語や江戸時代の松尾芭蕉の奥の細道にも出てくる歌枕として有名な史跡です。
用明天皇(540~ 587年)の時代に、全国から宮中の女官を募ったところ陸奥の国から選ばれたのが気仙郡高田の里(現在の陸前高田市)に住む近隣でも評判の才媛で武日長者の娘朝日姫であつた。
武日長者です。
郷土の栄光と名誉を担って、船の旅に出た朝日姫であったが、途中大嵐となり、船を降りて陸路を進めねばならなかった。
一行は陸路をとるため北上川から迫川へ入り、現在の姉歯の松の地に上陸した。
しかし、姉歯の里にたどり着いたところで重い病気になり下郎が見守る中で息を引き取ってしまう。
最後まで都に思いを馳せながら逝った哀れな朝日姫を姉歯の人たちは丁寧に葬ったという。
下郎が高田の武日長者の元へ帰り事の始終を報告した。武日長者は娘の死を深く悲しんだが、朝日姫の代わりの者を都に送り届けなければならず、やむなく妹の夕日姫を都に上らせることにした。夕日姫は都に行く途中せめて亡き姉の墓所を弔いたいと姉歯の里に辿り着いた。
朝日姫の墓は小高い丘の上にあつた。夕日姫は涙を流しながら亡き姉の墓を弔い、寵蔵寺という寺を建て、姉歯の松の由来となる一本の松を植えるという場面。
〽 栗原の姉歯の松の人ならば 都のつとにいさといわましを
伊勢物語の中で在原業平が歌ったものが姉歯の歌枕となっています。
ところでこの姉歯の松には源義経も訪れていて、義経記にも「あねはの松の名木を御覧じては松山道を越え、秀衡が方へは近く候理にまげて此のみちに掛からせ給うべし」と記されている。
動画でどうぞ
