牡鹿神楽古実会「白露」@第42回石巻地方神楽大会
さて本日は、第42回石巻地方神楽大会から牡鹿神楽古実会で白露です。
その前に、牡鹿神楽古実会の由来について宮城県の民俗芸能1より
「石巻地域(旧牡鹿郡)には旧藩時代、牡鹿十ヶ院と称する修験院があり、南境の正浄院、大瓜の常善院、高木の光妙院、水沼の文殊院、真野には観殊院と喜明院、沼津に宝性院と賢龍院、根岸の開明院、渡波の常楽院であった。
これらの法印たちが相集って各祭礼に際して祭式のあと法印神楽を演舞してきたもので、大正元年に当時稲井村根岸の周明院の津田主税法印によって記された文献によると、この法印神楽は元和3(1617)年あたり、或いは正徳5(1715)年から再興されたものとあるが、その確認はできない。
文化文政のころに最も隆盛を極めたのち、明治維新の神仏分離令によって中断したが、明治12年8月に各院によって牡鹿古実会が結成されて法印神楽が再興されたという。
本田安次博土が昭和4年に石巻中学に赴任された翌年の昭和5年は石巻牧山の鷲峰山長禅寺中興の祖片桐栄洋法印250年遠忌に当たり33日間も大祭が続けられ神楽が行われたらしいので、本田氏はこれらと親しく接し感銘を受けられていたと思われ、『陸前浜本」を編まれる基となった。
明治12年の神楽再興は牧山の零羊崎神社宮司の桜谷可守師と根岸周明院の津田雄記法印等とで実を挙げられた縁もあったか、それ以来この神楽は牧山の宮司によって代々主導されていたようであるが、大正元年のころは現石巻市内域となった、沼津から2、真野2、渡波1、根岸1、水沼1、闘木1、大瓜1、南境1の10人の法印たち(本山派が多いという)によって伝承されていた。
昭和50年ころは会員が15名ほどいたが、現在は沼津から6人、渡波から1人、そして桜谷会長と8人となった。戦後生れは2人であるので後継者不足は否めない。石巻市湊小学校や沼津小学校等で履修を行い、大分上達したと聞いていたが、青年たちの後継者養成が急を要す。
舞台の大乗飾りを復興させ得る指導者も居り、四節の「きりこ」も作成できる。仮面、装束等も秀れたものが揃っている。
零羊崎神社境内には常時、法印神楽用の仮設舞台が設らえてあった。石巻市で行われる文化祭や神楽大会等には毎年出演している。
昭和46年に東北映画社により牡鹿法印神楽によって「白露」と「魔王」が8ミリ映画に記録されている。」
とのことで宮城県指定無形民俗文化財及び文化庁の記録作成等の措置を講ずべき無形民俗文化財として選択されている。
現在の代表者は櫻谷鎮雄さんです。
さて、白露です。
この演目は国産神話にまつわる物語であり、神話の中でも最も大事な部分を語るものとして、法印神楽では秘中の秘とされる演目です。
また、演目名も(本吉郡志津川)戸倉や雄勝では「はくろ」といい、牡鹿や桃生では「しらつゆ」あるいは「びゃくろ」と呼んでいる。
さらにこの演目は、神歌が重要であることなどから神唄とも称されて、それが転訛して順拝や順唄などとも称されている。
天神七代の神である伊弉冉尊と伊弉諾尊の二神が登場人物として現れる。
神楽組によっては先にツケが出て国産みの物語と天神七代のことわりを述べてから二神が出る様式もある。
伊弉諾尊 千早に緋袴で舞出る
伊弉冉尊 同じく千早に彦面で出ずる
白露という演目名は伊弉冉尊と伊弉諾尊が国産みの際に、天の沼矛を振り差してコウロコウロとかき回したところ、矛の先より白い液が滴り落ちて固まったのがオノコロ島ということより来ている。
例えて言うなら男女和合と子孫繁栄を願う所作をすることによって神々に幸福を願うものであろう。
舞の後半は二神が扇と鉾を持って早い舞うところに特徴がある。
そして最後には平伏して拝礼し、幕内に入る。
最後に二神が拝礼して終わる。
伊弉冉尊、伊弉諾尊二神の神の夫婦和合、子孫繁栄を祈祷する神楽であり、陰陽自然の理を現す舞で、古くは秘曲とされていたという。中にはこの演目を演じた後には陰陽どちらかの舞人に不幸が起こるといって忌み嫌い、演ずることが禁ぜられたこともあるという。
とにかく、この白露はお目にかかる機会が少ないレアな演目です。
お目にかかれて眼福でした。
いつか石巻市の零羊崎神社の祭礼での神楽を鑑賞したいものです。
動画でどうぞ
