立花地区の民俗芸能いろいろ@第2回立花地区お花見演芸会
さて本日は、第2回立花地区お花見演芸会から立花地区の民俗芸能を4つまとめて紹介です。
最初にあらど神楽です。由来の解説は当日パンフレットからです。
江刺市(現在は奥州市)稲瀬柏原集落の屋号「船堤」から伝えられた岳系神楽であるといわれ、発祥は明治時代の中頃と考えられています。
権現頭が立花毘沙門堂に保存されています。
無病息災、五穀豊穣、家内安全を祈願し、 水・米・身に着けるものを捧げて祈祷します。
現在は下野·沢野·上野·中才·桜町,舘地区を火防祭に各家庭をまわって門付けを行っております。
昿土あらど)とは、中才·沢野·下野地区の平坦な水田地帯を言います。
下舞に少し特徴があり、各家庭を門付けして廻るために工夫された内容となっているようです。
別当のあげものは火伏せの水柄杓と米、それに祈願者が身につけるものです。
次に橘内神楽です。
伊勢神宮参拝に参加した御福田講中によって演じられてきました。
発祥の時期は不明ですが、明治時代と考えられています。
一時途絶えていましたが、集落の青年達の手によって昭和25年に復活しました。
現在では無病息災や防火を祈願して、主に神社等に舞を奉納しています。
権現様の頭持ちと尻尾取りの所作に特徴があります。
次に塩釜太神楽です。
明治23年の川岸の大火で廃絶した鹿踊の代わりに、明治25年に現在の黒岩字平沢から立花の妙見堂別当の八重樫家に養子として入った嘉右エ門が主催して舞ったのが始まりといわれています。
現在は地区民の健康や五穀成就を祈願して舞われています。
北上民俗芸能総覧の記述では大黒舞と萬歳の復活を目指しているとありましたが、その後どうなったのでしょうか。
最後に立花八士踊です。
天正18年太閤検地に反発し、一揆をおこしましたが、翌年の再仕置により一揆は鎮圧されぼした。
結果、南部信直公が稗貫、和賀二郡を治めることになり、鳥谷ヶ崎城で領主宣言の宴の際、信直公の命により8人の武士が槍を持ち、刀を差して輪になり、唄いながら踊りました。
その後、天下太平·武運長久,五穀豊穣を祈願し、和賀の領民へ伝え、この踊りを「八土踊」と名付け、踊り継がれています。
北上市内の八士踊は、他に口内、後藤それに滑田の台笠で、立花のは特に古態を残しているという。
動画でどうぞ
あらど神楽
橘内神楽
塩釜太神楽
立花八士踊
