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2019.02.03 | Comments(0) | Trackback(0) | カテゴリ神楽

栗原神楽「義経物語 涙の腰越状」@第39回尾松神楽鑑賞会

さて本日からは、第39回尾松神楽鑑賞会のリポートとなります。
トップバッターは栗原神楽で義経物語 涙の腰越状です。

栗原神楽さんの由来については定本より

「明治一二年三月三一日、栗原悦之助が神道事務局に神楽の届出し承認を得た文書がある。
岩手県萩荘村市野々の自鏡山山伏神楽の指導を得たといわれている。
大正時代に復活、中断した。昭和五年、栗原の佐藤正吉が指導し再興する。その弟子代表の佐藤左吉に引継がれ現在に至っている。初代庭元栗原悦之助が中断後を再興した。」とあります。

現在の代表者は佐藤敬さんです。



源義経が源平合戦において勲功あったにも関わらす、後白河法皇に近づき過ぎ、頼朝に無断で任官されるなど、武士の社会を創りたい鎌倉の兄頼朝の不興をかってしまう。
 1185年(元暦2年)、壇ノ浦で平家を滅ぼした義経は、捕らえた平宗盛父子を護送し鎌倉へ凱旋しようとするが、頼朝は鎌倉に入ることを許さないという厳しい措置をとった。
 この措置は、梶原景時による讒言によるものが大きいといわれるが、義経への不満については源範頼からも寄せられていた。
 「腰越状」は、義経が頼朝の側近大江広元あてに送った弁明書であるということです。

鎌倉へ急ぐ源義経と配下の伊勢三郎義盛、佐藤忠信、武蔵坊弁慶

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鎌倉・満福寺で源頼朝に戦勝報告の願い出をする義経

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頼朝の使者小山朝光が鎌倉入り不可の口上を伝えたため、義経は兄の誤解を解くため嘆願書を書き上げます。
世にいう腰越状です。

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弁慶役の佐藤敬さんが腰越状全文を読み上げましたので、全文掲載してみます。

義経記より腰越状

「源義經恐れ乍(なが)ら申上候意趣は、御代官の其(その)一つに撰ばれ、勅宣の御使(つかひ)として朝敵を傾(かたぶ)け、會稽(くわいけい)の恥辱を雪(すゝ)ぐ。勳賞行はるべき所に、思(おもひ)の外(ほか)に虎口(こくう)の讒言(ざんげん)に依つて莫大(ばくたい)の勳功を默止(もだ)せらる。義經犯す事なふして、咎(とが)を蒙(かうぶ)り、誤りなしといへ共、功有(り)て御勘氣(かんき)を蒙(かふぶ)るの間(あひだ)、空しく紅涙に沈む。讒者(ざんしや)の實否(じつぷ)を糺(たゞ)されず、鎌倉中へだに入れられざる間、素意を述ぶるに能はず。徒(いたづ)らに數日を送る。此時に當つて永く恩顔を拜し奉らず、骨肉同胞(どうばう)の儀既に絶え、宿運極めて空しきに似たるか、將又(はたまた)先世(せんぜ)の業因(ごうゐん)を感ずるか。悲しき哉、この條、故亡父尊靈再誕(さいたん)し給はずむば、誰(たれ)の人か愚意の悲嘆を申(し)披(ひら)かん、何(いづ)れの人か哀憐(あひれん)を垂れんや。事新しき申狀、述懷に似たりと雖も、義經身體髮膚(しんたいはつぷ)を父母(ぶも)に受け、幾(いくばく)の時節を經ずして、故頭殿(こかうのとの)御他界の間、孤(みなし)子となつて、母の懷(ふところ)の中(うち)に抱(いだ)かれて、大和國宇陀郡(うだのこほり)に赴きしより以來(このかた)、一日片時(へんし)(も)安堵の思ひに住せず、甲斐なき命は存(ぞん)ずと雖も、京都(の)經廻(けいぐわい)難治(なんぢ)の間、身を在々所々に隱し、邊土遠國(へんどをんごく)を栖(すみか)として、土民百姓等(ら)に服仕(ぶくじ)せらる。然(しか)れども幸慶(かうけい)忽ちに純熟して、平家の一族追討の爲に上洛せしむる。先づ木曾義仲を誅戮(ちうりく)の後平家を攻め傾(かたぶ)けんが爲(ため)に、或時は峨々たる巖石(がんせき)に駿馬に策(むちうつ)て、敵(かたき)の爲に命を亡(ほろぼ)さん事を顧みず。或時は漫々たる大海に風波の難を凌(しの)ぎ、身を海底に沈めん事を痛まずして、屍(かばね)を鯨鯢(けいげい)の鰓(あぎと)に懸く。加之(しかのみならず)甲冑(かつちう)を枕とし、弓箭(きうせん)を業(げう)とする本意、併(しかしながら)亡魂の憤(いきどほり)を休め奉り、年來の宿望を遂げんと欲するの外は他事無し。剩(あまつさ)へ義經五位の尉(ぜう)に補任(ふにん)の條、當家の重職(てうじよく)、何事か是(これ)に如(し)かん。然(しか)りといへ共今の愁(うれへ)深く歎(なげき)切なり。佛神の御助(たすけ)に非(あら)ずは、爭(いかで)か愁訴を達せん。是(これ)に因(よ)つて、諸寺諸社の牛王寶印(ごわうほうゐん)の御裏(うら)を以て全く野心を插(さしはさ)まざる旨、日本(ぽん)國中の大小の神祇(じんぎ)冥道(みやうだう)を請(しやう)じ、驚かし奉つて、數通の起請文(きしやうもん)を書き進(しん)ずと雖も、猶以(もつ)て御宥免(ゆうめん)なし。夫(それ)我國は神國なり。神は非禮を享(う)け給ふべからず。憑(たの)む所他にあらず。偏(ひとへ)に貴殿廣大の御慈悲を仰ぎ、便宜(びんぎ)を伺ひ高聞(こうぶん)に達せしめ、祕計を廻(めぐ)らして、誤(あやまり)無き旨を宥(ゆう)ぜられ、芳免に預(あづか)らば、積善(しやくぜん)の餘慶家門に及び、榮華を永く子孫に傳へ、仍(よつ)て年來の愁眉(しうび)を開き、一期の安寧を得ん。書紙(しよし)に盡(つく)さず、併(しかしながら)省略(せいりやく)せしめ候ひ畢(おは)んぬ。義經恐惶謹言。
  元暦二年六月五日              源義經
 進上 因幡守(いなばのかうの)殿へ 」

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しかしながら、遂に頼朝の誤解を解くに至らず、踵を返して京都へ事になります。

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義経は、後白河法皇から頼朝追討の院宣を掲げて立ち上がります。

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動画でどうぞ

テーマ:伝統芸能 - ジャンル:学問・文化・芸術

2019.02.03 |

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Author:祭りの追っかけ
祭・・・それは祈り、畏れ、そして縋り付くばかりの信仰、神人共生の歓びの象徴。さて、明日のエネルギーの糧を求めに彷徨おう。

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