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2019.01.24 | Comments(0) | Trackback(0) | カテゴリ関連書籍

本田安次が見た芸能 その1「風流神楽」

さて本日は、これまたひょんなことから入手した岩崎美術社刊の「旅と伝説」から」取り上げてみます。
この旅と伝説には日本各地の風光明媚な観光名所の紹介から、各地の伝説や伝承芸能などについて様々な書き手が取材をした見聞記等を掲載した大鑑です。

ということで、昭和6年10月発行の中から本田安次寄稿の「岩手の旅」をもとに本田安次が見た芸能と題して書いてみます。

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本田安次は石巻中学教諭時代に浜の法印神楽を見聞きしていたが、ある日仙台の神社で南部神楽の上演に巡り会い、その舞の手の細やかさに驚いて岩手県の神楽調査に踏み出してついには早池峰神楽を発見したというエピソードが有名です。

その際の南部神楽は福原神楽(現奥州市水沢)だったということですが、法印神楽と山伏神楽のハイブリッドといえる南部神楽が昭和初頭頃には風流神楽と定義づけられていたことがわかります。

本文中から抜粋してみます。

「朝早く中尊寺へ。大長壽院の菅原氏を訪れ、かねてお願ひしておいた中尊寺能の開口、及び祝詞の詞章の寫本を拜見しようとしたが、人に貸してまだ返ってきてゐなかった。
それより衣川村の川東へ、川東神樂を訪ねたが、所謂風流神樂の支流で、所傅思ふやうでなく、大體をお伺ひして戻る。
(中略)
汽車の都合で,それから徒歩で日盛りを前澤へ。
白鳥神社の吉田氏に会う。
色々話が出て、この神樂の鈴木氏を出先から呼んで下すった。
風流神樂と稱してゐる由。演劇がかった神樂である。
これは嚴美村が中心らしいといふ.これは衣川でもさう言ってゐた。
この夏の旅は、實はこの流の神樂を探すつもりであったのが、思ひがけずも今迄全く別のもののみを見て來た。
吉田氏の御口添もあって,わざわざテクストを取りに行って下さる。
曾て一の關の春、初午の日に、汽車を待つ間町を歩いたところ,風流祭りと稱して、義經の像を飾った山車を引き、辨慶其他の扮裝せるもの,及び踊の一團が家々を めぐり、火伏せの祈禱をし,花笠など持ち踊りまはってゐるのに出逢ったことがある。
又どこかの祭りにも、何かの山車を風流と言ってゐた地方新聞の寫眞を見た記憶がある。

此の神樂の仕組には,義經傳說が主となり、他に田村三代、掃部長者、葛の葉、羽衣等がある。
因に、此の神樂が、所謂歌舞伎と關係あるやうに考へることはどうか。
舞や科は式舞の手が基調になってゐることは明かで、詞章は別に寄りどころあったものと思ふ。
然しながら案外新しい発祥らしい節はある。
テクストを,期限を限って拜借して行く。」

当時南部神楽を風流神楽と称していたのは江戸時代に神事芸能であった法印神楽に対して、それを凌駕するが如く流行しだした新しい神楽という意味で風流としていたと推量される。
それはまた本田安次編著の陸前浜乃法印神楽に南部神楽が収録されていることでも法印神楽を基底に据えながら時代にあった工夫がなされた芸能という捉え方だったのだろう。

ちなみに大正時代に書かれた大原町誌(現一関市大東町大原)の中に法印神楽と南部神楽に関してこういう記述がある。
法印神楽については「従前の修験の業なり、神代の故事に凝せし舞をなす」としながら
水山神楽(南部神楽の一系統)には「その所作野鄙にして滑稽を旨とす。故に唄も猥雑なるもの多し。多くは問答を用い、笛太鼓手拍子にて囃す。この芸人は主に青年輩なり」と。

昭和初期における両神楽の特徴がよく示されている記述だが、次第に法印神楽を駆逐していった様相がまさに「風流」だったのだろう。

ということで、本日の動画は平成20年8月のみちのく芸能まつりより狼志田神楽さんの五條の橋です。「義經傳說」です。



動画でどうぞ

テーマ:伝統芸能 - ジャンル:学問・文化・芸術

2019.01.24 |

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祭・・・それは祈り、畏れ、そして縋り付くばかりの信仰、神人共生の歓びの象徴。さて、明日のエネルギーの糧を求めに彷徨おう。

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