続々々 神楽伝承本について考えるvol.3 大原神楽の「風流諸作 御神楽詠議本」
さて本日は大原神楽の「風流諸作 御神楽詠議本」から引き続きです。
当時の神楽上演の様子について「神楽一座の成り立ち」という章で説明している。
「豊作などが続き経済的余裕ができ、神楽の踊り手となりうる青年達が揃ったとみて集落の有志が世話人となって神楽師匠を頼みに行く。神楽稽古が始まり、練習の成果が出た頃合いを見て温習(練習)揃えと称して一般に公開の企画をする。温習で習得した演目全てを上演するため二三日かかったということ。この温習揃えの最後には「座割」という宴を催したという」
こうして昭和43年に、神楽師匠高橋辛氏のもとで大原神楽が発足した。
画像は初代一座の名簿です。
次に「神楽の運営」という章では神楽の上演の様子などについて説明している
「昔は神楽の招待を受けると交通機関は徒歩に限られ、装束、道具一切を竹行李に詰め個々に背負って遠いところまで歩いたのである。いよいよ当地に到着となれば早速太鼓を締めて先ずもって寄せ太鼓といって真っ先に行うのが慣習であり、地域ではこの音を聞き一般観客はその所に集まるのだからである。
乗り込み当日は神社の祭日ならば大抵は上げ神楽と称して神社の中、または前庭等で三神楽を舞うのが先であり、更に本番の舞台となる。順序は三神楽、翁舞、三番叟、岩戸入り、魔王退治、岩戸開きとここまでは一通りの順序となっているが、その他一般の種目は建元と相談の上に演ずる。
遠い所から出掛け、だいたい夜中まで踊るので、大方昔は宿元(建元)に泊まったものであり、そのため翌日はまた立ち神楽と称して午前10時頃より午後まで踊り、夕方帰路についたもので、泊まらない場合はむしろ例外であった。
翌日の上演は八幡舞を幕開けに三番舞、大岩戸、都入り、山の神舞等も翌日の番組とされて勿論建元の希望はなるべく取り入れる用意に備えたものである。」
ということです。.
今日の南部神楽でも招かれて神楽を上演しに出かける場合もあり、神社での上げ神楽の後に付近の集会所等で昼神楽から夜神楽を上演もしています。しかし、現代では自動車での移動が通例であるため勧進元の家で泊まるなどということは皆無となった。
ということは、あくる翌日の立ち神楽という慣習は絶え果てたといえます。
昔は演じる側と見る側の距離が近く、上演の合間によもやま話などもする機会があったことだが、現代では舞台の上だけ見て終わりになり、舞手と触れ合う機会が少なくなったのが残念です。(もっとも神楽大会などでは観客席後方の壁際がふれあいスペースみたいになってますが・・・)
なにはともあれ、4回にわたって大原神楽さんの伝承本をもとに南部神楽のあれやこれやを見てきました。
また機会がありましたら他の神楽伝承本も取り上げてみたいと思います。
今日の動画は川東神楽さんの屋島合戦です。
動画でどうぞ
