奥州平泉子ども歴史講談「輝凛会」「川西大念仏剣舞誕生の章」@奥州こども芸術発表会2019
さて本日は、昨日に引き続き奥州こども芸術発表会から奥州平泉子ども歴史講談「輝凛会」で川西大念仏剣舞誕生の章です。
外題の川西大念仏剣舞誕生の章とは正しく衣川の民俗芸能であり、その発祥譚は平安時代の藤原清衡に遡る。
川西念仏剣舞の由来について。
「藤原清衡公が江刺の豊田館から衣川を越えて平泉に入り柳の御所造営していたころ、夜な夜な亡魂が物の怪となって世の中を荒しまわり、人々を恐れおののかせ惑わせました。清衡公は、これはどういうことかと、中尊寺のお坊様に相談しました。お坊様は「これは、過ぐる前九年・後三年の合戦において非業の最後を遂げた人たちが、成仏しきれずこの世をさまよっているものです。刀や弓で収められるものではなく、お釈迦様のお力で鎮めるしかありません」と語りました。清衡公は早速、山王権現に七日七夜のおこもりをしました。満願の日に一匹の猿公が現れ、荒れ狂う亡魂の中に混じり、猫間が淵(柳の御所と無量光院の間)に沈めていきました。御仏が猿の姿に身を変えて亡魂たちを浄土へと導いたのだと気づいた清衡公は、このことに感激し、家来の佐野弥左衛門に命じて、この様子を模し、創らせたのが川西大念仏剣舞です。なお、剣舞を創った佐野弥左衛門は、金色堂前の一角に葬られ、その墓は現在も剣舞塚として語り継がれています。」
ということで、伝承の地には石碑が建てられている。
川西念仏剣舞の由来についてです。
「藤原清衡公が江刺の豊田館から衣川を越えて平泉に入り柳の御所造営していたころ、夜な夜な亡魂が物の怪となって世の中を荒しまわり、人々を恐れおののかせ惑わせました。清衡公は、これはどういうことかと、中尊寺のお坊様に相談しました。お坊様は「これは、過ぐる前九年・後三年の合戦において非業の最後を遂げた人たちが、成仏しきれずこの世をさまよっているものです。刀や弓で収められるものではなく、お釈迦様のお力で鎮めるしかありません」と語りました。清衡公は早速、山王権現に七日七夜のおこもりをしました。満願の日に一匹の猿公が現れ、荒れ狂う亡魂の中に混じり、猫間が淵(柳の御所と無量光院の間)に沈めていきました。御仏が猿の姿に身を変えて亡魂たちを浄土へと導いたのだと気づいた清衡公は、このことに感激し、家来の佐野弥左衛門に命じて、この様子を模し、創らせたのが川西大念仏剣舞です。なお、剣舞を創った佐野弥左衛門は、金色堂前の一角に葬られ、その墓は現在も剣舞塚として語り継がれています。」
ということです。
川西大念仏剣舞は大人の伝承も行われていますが、地元の衣里小学校の子供達で川西大念仏剣舞子ども同好会が結成されて伝承活動を行っています。
さて講談です。
藤原清衡が後三年の役の後に平泉に柳の御所を築造しようとした時に、北上川から火の玉が沢山飛んできて民衆を悩ませていた。
そこで家来が兵300を出して火の玉を撃とうとするがやむ無し。
そこで藤原清衡は、関山にある山王権現に七日七夜籠もって祈願したところ、一匹の猿が現れて後三年の役で亡くなった 武士の霊を導いたところ猫間ヶ淵に消え失せて災いが止んだと。
それより関山に中尊寺を建立するとともに、戦で斃れた武士たちを鎮めるため亡魂に因んで剣を振りかざして舞う念仏剣舞を修することで世の中の平和を願ったという物語。
講談に限らず、農閑期に村々を廻る浄瑠璃や祭文語りなどを好んで受け入れてきた当地方であるだけに、こういった語り物は現在でも生きていくことと思います。
動画でどうぞ
