広瀬人形芝居常楽座「傾城阿波之鳴門 順礼之段」@江刺民俗芸能フェスティバル2018
さて本日は、江刺民俗芸能フェスティバル2018から広瀬人形芝居常楽座で傾城阿波之鳴門 順礼之段です。
当ブログでは人形芝居は初出ですが、とりあえず広瀬人形芝居常楽座の由来を
「明治3年(1870)軽石中郡(現江刺広瀬地区)で村歌舞伎の一員だった後藤幸右衛門がお伊勢参りの帰りに見た旧常陸の国の人形芝居を習い覚え、広瀬で上演したのが始まりです。
この頃は「軽石人形」と呼ばれていました。その後、三代目座長菊地良右衛門の時に初代が習い覚えた常陸の「常」め文楽系であることから「楽」の字をとって「常楽座」と改称しました。
戦時中は一時上演が途絶えましたが、戦後四代目阿部清がこれまでの吊り舞台を組み立て式に変え、どこでも上演できるようにし五代目菊池祥祐の時に演目がほぼ完全な形で復活しました。人形操作は「一人適い」と言われ、独特の操作方法で行います。
人形の表情が豊かです。」
ということです。
現在の代表は菅野 和則さんです。
さて、指繰り人形芝居について書き始めると枚挙に暇が無い程になるので、とりあえず広瀬人形芝居周辺について書きます。
これは芝居の舞台を袖から見た図です。
文楽同様に操師が演じる空間があるわけですが、この構造は歌舞伎仕立て由来ということです。
これは舞台裏で芝居の進行に色合いをつける拍子木です
囃子方は、三味線笛太鼓で芝居の進行を促します。
で、これが木偶人形
さて、人形芝居とはいえ話の筋立てがあります。
広瀬人形芝居では、かつては佐倉宗五郎、忠臣蔵三段目、播州皿屋敷、奥州安達原、石井常右衛門二代目賀六、太閤記、一谷嫩軍記、などがあったという。
その中でも、この傾城阿波之鳴門は文楽や歌舞伎などに取り入れられ、贔屓の多い演目として大衆に受け入れられてきた。
わかり易い筋立てと、母が娘を捨てた積年の思いと、我が子への情念が芝居を見る女たちの袖の雫となったであろうことが理解できる。
ストーリーを追うと
阿波徳島藩の「国次の刀」が何者かに盗まれ、主の命を受けた十郎兵衛は刀を取り戻すために幼い娘おつるを祖母に預け妻お弓とともに名を変え盗賊に身をやつして大坂に移り住んでいた。
ここからが今回の上演内容。順礼姿の女の子
その母親のお弓。
阿波徳島に我が子を残して藩の司令を完遂せんとしていたが、我が子と同じ年端の巡礼に対面し、憐憫の情にほだされて路銀を渡そうとします
しかしながら、娘はいわれの無い施しは無用と断ります
それでも、我が子と知ったお弓は無理に銀をもたせて見送るのでした。
ところが、親心で与えたこの路銀が後に悲劇のもととなろうとは・・・・カンカンカンカンカン お後は見てのお楽しみ!
傾城阿波之鳴門巡礼之段はここまで まずは幕引きとて・・・・
動画でどうぞ
