軽石薩摩奴踊「一番庭と三番庭の一部」@第13回奥州市郷土芸能の祭典
さて本日は、第13回奥州市郷土芸能の祭典から軽石薩摩奴踊で一番庭と三番庭の一部です。
由来については江刺の芸能(昭和56年江刺市教育委員会)より抜粋します
「甲州南部家家中本田友之助銘の巻物が盛岡南部家家中坂本六之助に渡ったのが文禄4年(1595)のこと。
そこから立花北館屋敷掃部に亨保12年(1727)に伝授され、寛政12年(1800)に柧ノ木田村飯森正連院へと伝承され、文化元年(1804)に上口内草刈場屋敷の栄之助へも伝授され同日に上口内庭元利三郎へも伝承される。
その後、文化5年(1808)草刈場屋敷久兵ヱ、文化11年(1814)大越田上万右ヱ門、天保14年(1843)と伝承されて、明治10年(1883)に口内草刈場菅野嘉吉へと伝わり、それを師匠として明治43年(1910)にい軽石初代の菊池高左衛門へ相伝された。」
ということです。
奴踊や八士踊と称される武士舞の風流踊は岩手県では旧南部藩領内に多く分布していて、大名行列から派生したものや神幸祭の練行列に供奉するものとして広まったということです。
北上では口内の他に立花や後藤にも奴踊があり、南部藩との境にある江刺でも同じ広瀬の歌書や梁川の西沢目にあり現在も活動している。
芸態は、締太鼓の拍子に合わせて唄上げがあり、奴は長柄の唐団扇を持って踊る。
次に素手での手踊りになり歌いながら踊ります
〽 いつも笹野で茂り松 山祝しゃんせ
唐も日本も大和は 笹の上なる 露の浮世じゃと トウセ
世間から言わされせ サーサオシャノ スワイノホエ ソレワ ハッハ
当世流行りし にし貝らぎの大鍔を
ずるり抜き 御免なれ お宿はどこの山のでん イヤスッスノス
動画でどうぞ
