出店田植踊「新田植之舞」@第13回奥州市郷土芸能の祭典
さて、本日からは、11月11日に開催されました第13回奥州市郷土芸能の祭典についてのリポートとなります。
最初は出店(でだな)田植踊さんの新田植之舞についてです。
その前に出店田植踊さんの由来について
文政7年(1824)旧小正月に堀切(現奥州市胆沢小山地区)横屋の田植踊の師匠、萬吉氏から若柳村(現奥州市胆沢若柳地区)出店中西屋敷の五郎七に伝授された。その後、終戦後の一時期(昭和30年代)に女田植として継承を守っていたが一時中断。
その後、再興され現在まで続いている」
ということです。
田植踊には、農家の庭先や土間で踊る庭田植と祝い事などの宴席で踊る座敷田植とがありますが、胆沢地方の田植踊は庭田植に分類されるもので、かつては小正月に豊作の予祝芸能として門付けして歩いたというものです。
登場するのは歌読(他団体では杁摺に相当する者)と弥十郎。
全体の進行役ということでは仙台地方の庭田植と同様です。
次いで羯子(かっこ)が羯鼓を打ちながら舞い込みます。
同じ田植踊でも、この小さな羯鼓を採り物としてるものを羯鼓踊系と称することもあります。
胆沢系で伝播した田植踊は皆この羯鼓踊系となっています。
次に羯子の後ろで踊る族子(他団体では奴踊に相当する)が舞い込みます。
採り物の鳥毛は稲の苗を象徴しているといい、田植えに際して田の神様に奉納する意味も込められた踊です。
出店田植踊では本田植之舞、羯鼓田植之舞、新田植之舞の三庭31振り舞となっていて、この日の演目の新田植之舞は「本田植の舞」に対するものということです。
「ほまづ田」といって、昔は大百姓の年寄りたちが自分だけの水田をもっていたが、その「ほまづ田」のための田植踊のことを「新田植之舞」としているようです。更に、さかのぼれば江戸時代本田に対して開墾された水田を新田と呼んで区別していました。この新田のための田植踊のことでもあります。
入り込みから整列が終わると
歌読が口上をあげます
〽 やれやれ弥十郎や これよりおわこう様のほまづ田とて五十枚の田を植えてくれや
動画でどうぞ
