田頭讃念仏「後生楽、問念仏、回向 他」
さて本日は、平泉町長島地区で8月15日に行われた田頭讃念仏の念仏申しの様子についてです。
この念仏申しは以前当ブログでも取り上げた隣地区である一関市舞川の舞川鉦太鼓念仏と同じ念仏供養の民俗行事で、かつてはこの地方に沢山あったということで、知人から聞いた話では奥州市前沢赤生津にもあったということですから、平泉を中心に伝播していったのではないかと推量されます。
由来については保存会所有の「田頭讃念仏申集」から
「お念仏の由来
天明年間、小島村三草作の佐内という剛力の若者がいて、束稲山の桜森へ朝草刈に行ったところ、石山の穴に隠れようとしている大蛇を見つけ、力比べをしようと大玉石を取っては投げして穴を大きくして大蛇の尾を掴み満身の力をこめて引っ張ったところ、半分から千切れて殺してしまった。帰り道喉が乾いて泉で水を飲もうとしたところ、湧き水が全部小さな蛇になり水を飲むことができなかった。家に帰ってからも毘沙門堂の辺りにも蛇がうようよ地面一杯で歩くこともできなかったという。
寝ても毎夜大蛇の夢に悩まされるので、これは大蛇のたたりと思い、西国信州長野に寺参りに行き、そこで習得して帰り伝えたといわれている。
その若者の剛力さは、畑を開墾するときは煤竹を麻引きのように引いて片付けたり、生家の東岳の日向の通門の渡り石を素手で持ち上げて運んできて敷いたというのが今も現存している。そのくらい力自慢だったという話が今でも伝えられている」
ということなそうです。長野には念仏踊りはあるものの大分様相が違います。
おそらくそれと当地方の大念仏が習合したものかと。
この盆行事は毎年8月15日に行われていて、庭元宅で笠揃いした後に、請われた初盆宅をまわり、夕方には地元の満福寺と東松寺を廻って墓回向をするというものです。
田頭讃念仏の初代は三草作の浅利佐内で、現在はその子孫にあたる浅利和昭さんが第9代となっている。
ちなみに、この庭元宅は赤伏にあるので、赤伏神楽というのがありましたねと伺ったら「家が庭元です。道具もあります」という返事。すごい発見をしてしまいました。後日その辺の話を伺うため再訪することにしました。
ということで、最初は庭元宅にて笠揃い 太鼓を打つ女の子たちがかぶる笠には山と鳥居が飾ってあります。まさに大念仏といった感じですが、これは重いので他の場所では花だけを付けた軽い笠で踊ります。
初盆宅に庭入りです。
太鼓、笛、ササラを鳴らしながら道から庭に入り、最初に庭で一踊りします。
念仏の順番は、後生楽、問念仏、参り来て~、留念仏、後生楽、回向、回向太鼓、問念仏です。
次に縁側から仏間に入り、初盆で集まっている親族が見ている前で念仏申しです。
念仏の順番は、あわれ様や~、回向です。
その後、家主から酒食をご馳走になりますが、それが終わると礼踊りというべき念仏があります。
念仏の順番は、蓮華や朱膳朱椀にみがき箸~、回向です。
初盆宅での念仏申しが終わると、菩提寺の満福寺に行き、最初に本堂にて念仏申しです。
念仏の順番は、お寺様や千畳たたみを走らせて~、回向です。
そして、墓地に移動して請われた初盆のお墓で念仏申しです。
墓前に提灯を提げるのはこの地域の特色です。
墓の前での念仏は いにしえの恋しき人の墓に来て 見るより早く濡るる袖かな 南無阿弥陀仏~、回向です。
最後に東松寺です。ここでは施餓鬼棚の前で念仏申しをしました。
念仏衆はともかく、踊りての女の子たちは今までは地区内の子どもたちでしたが、少子化のため他地域からも募集しなければと庭元さんが話していました。
長く続いていくことを祈ります。
動画でどうぞ
