日高見流浅部法印神楽 笹結 @ 第14回登米市民俗芸能大会
さて本日からは、7月8日に登米市中田農村環境改善センターにて開催された第14回登米市民俗芸能大会についてリポートしていきます。
当日は出演団体の都合でプログラムが一部変更になりましたので、下記に掲載します。
とにかくバラエティーに富んでいます。
最初は日高見流浅部法印神楽さんの笹結(ささむすび)です。
日高見流浅部法印神楽さんの由来は
室町時代の康暦年中(1379~ 1381)、瀧澤道胤が岩手県東磐井郡藤沢町西口にあった不動院に神楽を伝えたのが「西口流神楽」と称されるもので、寛保年間(1741~ 1744)に上沼八幡神楽へ伝承され、延享3年(1746)、京都賀茂出身で東叡山の峻学が東北地方巡視の折、上沼妙学院(白幡家)方に滞在したとき、良真・自海法印が笛・太鼓の唱歌を学び、元付十二春の神楽を伝授されたのが加茂流神楽と言われ、江戸時代、妙覺院を中心とした六ヶ院の修験集団により神楽が演じられ、文化・文政の頃には加わる法印も増え十三ヶ院を擁するに至り、明治初年まで盛んに行われてきました。
明治初年の神仏分離令により修験院が解体され神楽の継承が難しくなったため、旧浅邊村の三壽院芳賀廣瀬法印は、明治5年(1872)、白山姫神社の氏子10名に五十番の神楽を伝授し、「日高見流神楽」と称して、今日まで連綿と伝承しています。この神楽は、「流神楽」と呼ばれ、全国でも登米市中田町の「上沼」と「浅部」の2か所にしか伝承されていない貴重な神楽です。
法印神楽は、陰陽道に基づく独特な手印を結び、特殊な足踏をし、複雑な多くの舞型を残しています。
昭和51年(1976)には「大乗飾り」と呼ばれる特殊な舞台飾りを復元させています。
とあります。
囃子方は法印神楽の形態ですが、太鼓は締太鼓が一台と笛が付きます。
なお、太鼓には太鼓唱歌がありません。(上沼法印神楽にはある)
装束は法印神楽風ですがより簡素というか古態なものを伝承しています。
采や大口の用い方も古いものを感じさせます。
伊弉諾・伊弉冊二神が出ます。
天の逆鉾で大海原をかき回し、引き上げた先から滴り落ちたものが固まってできたのが大八洲国。
そこへ頭が五つで胴が一つという五鬼大人が現れ悪事をなしていた。
最初はなぜか女人姿で舞台を一巡りすると会場後方に設えた高舞台に入ります。
高舞台です。この中には後見人が入っていて衣装の着替えを手伝います。
天津神が五鬼大人を退治すべく祟得王を呼び出します。(陸前浜の法印神楽では「崇神四道」としている)
祟得王が高舞台を棒で叩くと中から五鬼大人が出てきて戦闘となります。
舞台に戻って棒と刀で激しい責め合いが続きます。
最後は五鬼大人を追い払い、奪い取った刀を掲げて勝利の行道で舞い納めます。
動画でどうぞ
