川内神楽 壇の浦の戦い 扇の的 @ 第28回ころもがわ神楽まつり
さて本日は、第28回ころもがわ神楽まつりから川内神楽さんで「壇の浦の戦い 扇の的」です。
その前に川内神楽さんの由来について
「川内神楽は古い歴史を持ち、今より二百年前川内要害の利平他数名が、西磐井郡厳美村山谷神楽より政吉師匠を招き指導を受けたのが始まりである。
明治末期に至り神楽は各地に盛んになったので、他に負けないようにと再び三輪流山谷神楽より師匠を招き、振り付けを学んだ。
大正五年、西磐井郡平泉戸河内神楽に、また大正10年頃、胆沢郡前沢町白鳥神楽を指導し組織した。
初代庭元高橋利平、二代利右エ門、三代七右エ門、四代菅原熊太郎、現在の庭元菅原宏は一二代目である。
昭和五三年三月二五日、衣川村より無形文化財の指定を受けた。」
とあり、現在も代表は菅原宏さんです。
扇の的は源平合戦の名シーンで、那須の与一の活躍する場面です。
平家を追討して屋島に渡った義経軍は沖に停泊する平家軍を眺めつつ「今日は日暮れぬ。勝負を決すべからず」と語ったのは平家物語の一節です。
そこへ平家方から一艘の舟が女官を乗せて義経軍の陣立てする浜の沖に止めて日の丸の扇をかざします。
ちなみに女官の足元には板で作った小舟の大道具で演出されていました。
義経は家臣後藤兵衛実元を呼び寄せあの扇の的の意味は如何にと問います。
あの扇は戦の運試しに違いないので、必ず射落とせる者を呼び寄せよと命じます。
そして呼び寄せられたのが弓上手で聞こえた下野国の住人、那須太郎資高の子、与一宗高です。
沖の舟の周りは波高く、風も強し。扇の的を射るのは至難の業とみた与一は神仏に祈ります。
「南無八幡大菩薩、わが国の神明、日光権現、宇都宮、那須の湯泉大明神、願はくはあの扇のまん中射させて賜ばせたまへ。これを射損ずるものならば、弓切り折り自害して、人に再び面を向かふべからず。
いま一度本国へ迎へんとおぼし召さば、この矢はづさせたまふな」と心の内に祈念して、目を見開いたれば、風も少し吹き弱り、扇も射よげにぞなつたりける。」
そしてビシッと射た鏑矢は見事扇の要を射落とします。
平曲では「敵の兵士も箙を叩いて賞賛したり」という。
動画でどうぞ。
