長野獅子踊り @ 大原長泉寺里帰り奉納公演
さて本日は、3月21日彼岸の中日に行われた遠野市小友町長野に伝承される長野獅子踊りがなぜか一関市大東町大原の長泉寺に「里帰り奉納」するということで行った際の模様についてです。
長野獅子踊りは遠野幕踊系のしし踊りですが、ここ大原は太鼓踊系のしし踊り行山流山口派のお膝元です。
それなのに何故里帰りなのか?非常に興味があるテーマだっただけに参観が楽しみでした。
この日は彼岸の中日でもあり、ご先祖様に供養をする日ということでの意味合いもあったことと思います。
春彼岸にしてはかなり寒い日となりましたが、参道には沢山のしし踊りFANが集結して通りを追いかけます。
山門前にて門譽めです。
さて、長野獅子踊りの由来について大正10年書き写しの「獅子踊由来」から抜粋すると
「其の節東山奥玉の生れ、東山奥丸と云う人御所に奉公の時なり。此の御方記念として始めたる踊なり。この聖武天皇より宝山半月踊と云う名称を賜りて、故郷に帰りて再びはじめ、其れより伝えしは、東山大原長泉寺より興庵篤隆と云う和尚、長野西来院を開創せしが、この時東山五書と云う友を一人連れ来たり、慶長二年(一五九七)の歳東山五書長野に教え、子孫繁栄と踊り伝えた
るものなり。」
とあります。つまり慶長2年に東山大原から小友に来た興庵篤隆のお供の東山五書なる踊り名人が長野にしし踊りを伝承したということです。
境内にて位牌譽めです。
しかしながら、奥玉も大原でも現在伝えられている鹿踊は太鼓踊です。
これは本吉志津川から行山流が伝播した経過が明らかであるので、これを伝承したということであれば小友でも太鼓踊りでなくては合点がいきません。
囃子方 ベテランの笛
囃子方 大太鼓
役踊りの柱懸
ということで、慶長2年に東山五書がもたらしたしし踊りは、現在行われている豊年踊りも加味した遠野しし踊りとは様相が異なっていたことだろうということが推測される。
なぜなら慶長2年ごろの東磐井地方には既に太鼓踊りの様相が色濃い形式が敷衍していたことが行山流各団体の記録等をみれば明白なので、東山五書なる人物が会得していたしし踊りは、いわゆる仙台踊りのしし踊りではなかったかと思われます。
投げ草です
伊藤伴内持遠や遠山休右衛門等が創始したであろう行山流とは違って、仙台周辺の鹿踊はかなり古くからあり、本砂金上組鹿躍に至っては慶長年間に遡ることになる。
従って当時敷衍していたであろう鹿踊は、そのまま現在の長野獅子踊りの形態とは異なっていたことだろうと思いますが、踊りを連綿と続いてきたことには間違い無いということです。
ちなみに、長野獅子踊りの装束を見ていたら、獅子頭に流しがついていました。カンナガラがフサフサと垂れているので気が付きませんでしたが、しっかりと流しがあるのです。さらによく考えると、カンナガラの代わりに采が頭に付いていたとすると太鼓踊系と大差ない装束となります。
この辺がキーワードになって東山五書が伝えたしし踊りの解明が進みそうです。
上演終わってみんなで記念撮影
長野の西来院には獅子供養塔が2基あり、一つは寛保2年(1742) 今一つは弘化3年(1846)の銘がある。
とはいえ、発祥譚はどうあれしし踊りの伝承には幾多の困難がありますがこの小友町長野の皆さんが一生懸命に取り組んでいる姿に感銘を受けました。
いつか西来院での奉納を見に行きたいと思います。
動画でどうぞ。
