富澤神楽 皆鶴姫閖上浜漂着の場 @ 第33回一関民俗芸能祭
さて本日は第33回一関民俗芸能祭から大トリの富澤神楽さんで皆鶴姫閖上浜漂着の場です。
当日はこの前に小猪岡田植踊だったのですが諸般の事情で欠場となり、その分も含めて富澤神楽さんの上演がたっぷりという展開になりました。
富澤神楽さんの演目紹介の前に、富沢神楽さんの由来については定本から
「明治二○年頃、蕎麦沢の佐藤林之丞が庭元となり、西磐井郡金沢村飯倉神楽の小野寺忠七師匠(飯倉から真滝小林に婿養子に来た人)を招き、部落の若者達に神楽の指導を行ない富沢神楽を創設した。
明治時代、初期の人達が二期、三期と舞人の養成を図ったが大正初期に絶えた。
昭和三年、佐藤民治が発起人となり佐藤甚之助が庭元となり、飯倉神楽より高橋衛師匠を招き佐藤民治と共に神楽の指導を行ない、富沢神楽を再興した。
初代庭元佐藤林之丞、二代三代佐藤甚之助、四代佐藤利男、五代千葉清人、六代佐藤登である。」
とありますが、現代の代表者は佐藤徹さんです。
さて演目の皆鶴姫です。
これについては数年前から富澤神楽代表の佐藤さんがいずれは上演したいと語っておられた演目です。
この一関民俗芸能祭の行われた3月11日は東日本大震災からちょうど7年目に当たる日で、気仙沼ゆかりの演目を上演するということで、富澤神楽さんは上演前に舞台上で黙祷を捧げました。
ところでこの皆鶴姫と気仙沼の由縁についてはつぎのとおり
義経が京都・鞍馬山で修業をしていた頃のこと。義経に想いを寄せる皆鶴姫が、義経のために父・鬼一法眼のもとから中国伝来の兵法書を盗み出した。義経が奥州へ出奔した後、そのことを知った鬼一法眼は皆鶴姫を罰するため舟に乗せて海に流したという。その舟が流れついたのが、気仙沼市松崎前浜の母体田海岸。夢のお告げでそれを知った義経は、姫の遺骨と観音像を見つけだし、平泉と気仙沼の中間に観音寺を建てて祀ったという。いまでは観音寺は気仙沼市本町に移り、皆鶴姫伝説とともに、義経が使っていた笈が伝えられ、境内には弁慶袈裟掛けの石も残っている。また気仙沼市内には、観音寺と母体田の高台に観音堂が建てられ、皆鶴姫の霊が祀られている。
ということで、一関市室根の皆鶴姫神社には皆鶴姫の神像が奉られているということです。
画像は東磐史学第30号より ※ちなみにこの皆鶴姫木像の作者は神楽面師で有名な及川慶龍です。
さて、富澤神楽さんの皆鶴姫は道化仕立の漁師2人の登場から始まります。
気仙沼前の沖で漁をしていたところ、投網に虚舟が掛かり、調べてみれば鼻耳を削ぎ落とされた姫君が載せられていたので助け出した。
道化の一人は会長さんです。面白おかしく会話を進めるのは名人芸ですね!
助け出した姫君が、源義経に会いたいと願ったが衰弱した体では平泉までは行けないと諦め、漁師に義経へ宛てた書状を託すのでした。
源氏再興のために四国の鬼一法眼から取り戻した八十四巻の兵法書「多神通虎の巻物」を平泉の藤原秀衡公に報告する源義経
そして従者の武蔵坊弁慶
そして藤原秀衡
皆鶴姫の書状を読んだ源義経は源氏再興の誓いを新たにするという物語です。
この演目は気仙沼市の観音寺が縁の地としてあり、寺には漂着した器舟の船底、義経が使ったという「笈」、弁慶が袈裟を掛けたという「袈裟がけの岩」などがあるという。
いつか富澤神楽さんのこの演目が気仙沼で上演されることを実現できればと思います。
動画でどうぞ。
