南沢神楽 屋島合戦 @ 第33回一関民俗芸能祭
さて本日は、第33回一関民俗芸能祭から南沢神楽さんで屋島合戦です。
その前に、南沢神楽の由来について
「明治初期、市野々に本郷神楽が組織され、市野々神楽の本流となったが昭和初期衰退した。
昭和一五年、金野米右エ門が宮元になり、本郷神楽の千葉秀雄師匠を招き神楽の指導を受け、南沢神楽を創設した。戦前は蘇武運一郎師匠が、戦後は蘇武栄登師匠が指導に当り現在に到っている。
初代宮元金野米右エ門、二代佐藤匡美、三代蘇武栄、四代蘇武秋男である。
蘇武運一郎は神楽の師匠であると同時に神楽面師でもある。また、岩手県南宮城県北神楽大会の審査員を二○年にわたり勤め感謝状を授けている。」
とありますが、現在の代表は佐藤耕三さんです。
一の谷の合戦に続いて平家を追討すべく迫った義経
奥州信夫郡領主、佐藤庄司基治の長南佐藤継信 義経に従って平家討伐に出陣です。
同じく弟の佐藤忠信
屋島合戦において、源義経と平家方の能登守教経とで大将同士の直接対決になるも、、佐藤継信が間に割って入り戦いますが決着がつかない。
そこへ教経の家来である菊王丸が管矢を使うよう進言します。
教経の放った管矢に胸板を射抜かれて継信が戦場に倒れます。
戦が終った夕暮れの中で弟忠信が兄継信を探し求めて、ついに見つけるも、継信は深手を負っていたため、主君義経の待つ高松城へと背負って行きました。
継信は主君義経と弟忠信へ形見分けと遺言を残して果てるのでした。
平家物語の「嗣信最後」では、継信が間際に次のように語ったとされる。
「別に何事も思い置くべきことはない。しかし、主君が世の中で栄達するのを見ずに死ぬことが心に懸かることです。武士は、敵の矢に当たって死ぬことは元より期するところです。なかでも、源平の合戦に奥州の佐藤三郎兵衛継信という者が、讃岐の国屋島の磯で、主に代わって討たれたなどと、末代までの物語に語られることこそ、今生の面目、冥途の思い出です」
動画でどうぞ。
