小沢獅子踊り 前庭、女獅子狂い、後庭 @ 第45回川井郷土芸能祭
さて、本日は第45回川井郷土芸能祭から小沢獅子踊りと、指導している宮古小学校獅子踊り伝承委員会による 前庭、女獅子狂い、後庭です。
小沢獅子踊りの起源について、宮古市横山八幡宮HPより引用
「元明天皇の和銅年間(約1250年前)猿丸太夫が天皇の怒リに触れてこの地横山の里(宮古の古称)に流されたとき、里人は殿上人であった太夫に頼んで八幡宮の宮守になってもらった。
太夫は失意の日々を山野に遊ぶ鹿に慰められ、里人の善意に支えられて暮らしていたが、 「奥山に紅葉ふみわけ鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき」と詠んだ配所の歌が上聞に達し許されて都へ帰って行った。
里人は今更ながら太夫の徳をしのぴ、鹿にたわむれていた往時の太夫の心情に想いをはせて鹿子踊を創案し、横山八幡宮の例祭日にこれを奉納したという。
爾来、時代の推移、民生の消長と共に幾星霜、鹿子踊リは黒森山麓の小沢部落にその命脈を保って来たのであるが、たまたま兄頼朝軍の目をかすめて平泉を逃れた源義経が、北方へ落ち延ぴる途次、当市黒森神社に参篭し、前途の平穏を祈願するため大磐若経を書写したと伝えられているが、小沢の鹿子踊リが義経の一行のつれづれを慰めたところ、義経は非常に喜ぴ、「鄙の心のかく厚し、小沢の里よ鹿子よいやさか」と宣い、源氏の大将として都において華やかな歌舞音曲を身につけていた義経は、踊の所作、調ぺの妙ていについて数々の助言をなしたので、小沢鹿子踊リは一段と洗練されて雄渾華麗なものとなリ、その来歴とともに独自の踊リとして今日に伝承されたものである。(宮古獅子踊り由来)_宮古獅子踊り保存会刊より」
とあります。
猿丸太夫伝説は日本各地にあるようなので、伝承譚ということでよろしいのではないかと思います。
この日は、小沢獅子踊りが指導している宮古小学校の子どもたちとのコラボレーションということで、最初に子どもたちが前庭を務めました。
囃子方は笛数人と太鼓が二人。
獅子は、太夫鹿一人、狩鹿二、女獅子一、ハナ鹿二、ガワ鹿二三の計九人の構成。
獅子頭の角は鍬形で、真中の前立てはそれぞれ剣月星花型が飾られている。
目の下に描かれた髭のような模様が特徴か。
小沢獅子踊りは昔は盆に踊ったそうだが、現在は光岸地の大杉神社と宮町の横山八幡宮の祭典時に神輿渡御に供奉している。
昨年度に湊大杉神社の祭典に行った折に見た神輿供奉の様子を自ブログに掲載していますのでご参照ください。⇒曳船祭りと小沢鹿子踊り
動画でどうぞ。
