沢辺神楽 秀衡公 桜狩りの場 @これはりの里神楽伝承まつり
さて本日は、これはりの里神楽伝承まつりから沢辺神楽さんで「 秀衡公 桜狩りの場」です。
その前に沢辺神楽さんの由来を「栗原伝統伝承芸能記録保存」より抜粋
「昭和49年11月、沢辺地区と姉歯地区の有志6人が集まって斎藤憲雄が庭元となり、城生野神楽の熊谷勤師匠を講師として迎え、黒沢流南部神楽を習得した。
昭和53年に栗駒文字駒堂神楽の師匠菅原金雄氏に師事し山谷流の鶏舞を習得した。」
ということなそうです。現在の代表は佐藤忠一さんです。
物語は、奥六郡の主である藤原秀衡が花見の祝宴をしている場面から始まります。
金売吉次です。沢辺神楽さんの地元出身と言われています。
話は遡って、奥州藤原家と藤原基成の関係について少々。
後鳥羽院の重臣であった藤原忠隆の息子で、兄弟姻戚に関白が多くいるなど権力の中枢近くにいたようです。
その基成は、康治2年(1143年)4月に陸奥守に任官され、6月に鎮守府将軍を兼任し平泉へ下向。その後、仁平3年(1153年)までの約10年間を平泉で過ごしている。
その後、平治元年(1159年)の平治の乱で敗れた異母弟・信頼との縁座によって陸奥に流された。以降、秀衡の岳父として衣川館に住み、奥州藤原氏の政治顧問的な立場を確立した。
この間、平泉二代藤原基衡と親交を深め、政治的相談役ともなったことなどから、娘を基衡の息子秀衡に嫁がせている。
その娘がこのしずはた姫ということです。
秀衡が京都の朝廷と長く政治的均衡を保てたのもこの基成の助力があったことともいえますが、秀衡としずはた姫の子、泰衡の時代になると風雲急を告げることになるのですが・・・
流罪になった父藤原基成をしずはた姫が尋ねてきて、自らを表すため歌と舞を花見の場で披露する場面となります。
扇車の舞が艶やかです。
しずはた姫と藤原基成の因果を知った藤原秀衡は、策があるということでしずはた姫を平泉にとどめて戦略を練るの図 というわけです。
動画でどうぞ。
