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2017.11.05 | Comments(0) | Trackback(0) | カテゴリ神楽

城生野神楽 伊治城物語 @ これはりの里神楽伝承まつり

さて本日からは、10月29日に栗原市築館の旧富野小学校体育館にて開催された「これはりの里神楽伝承まつり」の模様をリポートしていきます。

最初ですがこの日最後に上演された城生野神楽によります伊治城物語(宝亀春の夜嵐)です。

その前に、城生野神楽さんの由来について定本より

「嘉永年間(一八四八)富野城生野の富助が岩手県西磐井郡萩荘村市野々、自鏡山の山伏神楽を習得した。後部落の若者達に指導して城生野神楽を創設した。
以来城生野神楽は、山伏神楽の正統を保っているので宮城県北の神楽の総元締である。
初代庭元千葉幸之進、現在の庭元加藤義勝は五代目である。
昭和三六年一一月、築館町の無形文化財に指定されている。」

とあります通り、幕末に自鏡山の法印神楽を習得して以来、明治中期に阿久戸神楽に伝承したのを初めに、栗原地方の十数団体に神楽伝授を行なってきた団体であります。現在の代表は佐藤安美さんです。



さて、この日上演された伊治城物語という演目は、栗原市出身で鎌倉市在住の神楽研究科佐藤正行氏が神楽台本を起稿した創作神楽です。平成7年に上梓された神楽台本ですが、これを上演するのは今回が最初ということです。物語の背景などを神楽衆が研究し、さらに今後のために城生野の地域理解を深めるためにも分かり易い神楽をということで大変なご苦労の末の上演ということでした。

城生野神楽の地元には伊治城の史跡があり、伊治公呰麻呂(これはるのきみあざまろ)が統治していたという伝承があります。

この演目の内容は多少込み入ってますので、当日プログラムから転載します。

伊治公呰麻呂は宮城県北・栗原地方の蝦夷の族長であったが、大和朝廷が置いた多賀城の出先機関である伊治城の大領(長宮)として領内を治めていた。
しかしながら、北方の民が大和朝廷に従わなかったために、時の政権は陸奥守鎮守府将軍紀広純(きのひろずみ)を派遣し、その前線基地として「覚べつ城」造営を計画し、その築城を陸奥国按察使の紀広純に命ずる。

その頃、同じ俘囚出身である牡鹿郡大領の道嶋大盾は、夷俘の出であるとして呰麻呂を見下し侮ったため、呰麻呂は内心深く恨んでいた。

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宝亀11年3月22日、鎮守府将軍紀広純と道嶋大楯らが兵士2000人を率いて、胆沢の蝦夷勢力への進撃の前線基地として覚鱉城(かくべつじょう)築城の準備のために伊治城に入ってきた。

その頃、呰麻呂の元に妻の鹿島姫と伊治鷹麻呂が来て、民人の積年の恨みを晴らすべしとて刀を捧げます。

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都から紀広純が郎党を従えて伊治城に来ます。

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夜の祝宴となり、呰麻呂はこれを撃たんと計略をはかり、広純たちに酒食でもてなし酔い潰れさせます。

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そしてかねてより伏せておいた兵たちとともに紀広純たちを討ち取ります。

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この時、次官の大伴真綱の命は助け多賀城まで護送し、政権側に北進策を中止文を真綱に託し多賀城に火をかけた。
この呰麻呂の叛乱を契機として、夷俘囚の豪族などが各地で決起し大和政権に激しく抵抗し、いわゆる38年戦争に拡大していった。

と、この日の上演はここまでですが、実はこの神楽台本ではまだまだ先の話があるということでした。
佐藤正行先生の新作台本は見たことがありませんが、是非とも完結編まで城生野神楽さんに上演していただきたいと願うものです。

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動画でどうぞ。

テーマ:伝統芸能 - ジャンル:学問・文化・芸術

2017.11.05 |

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Author:祭りの追っかけ
祭・・・それは祈り、畏れ、そして縋り付くばかりの信仰、神人共生の歓びの象徴。さて、明日のエネルギーの糧を求めに彷徨おう。

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