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2017.10.26 | Comments(0) | Trackback(0) | カテゴリ神楽

達古袋神楽 弁慶安宅の関 @ 第40回平野神社神楽大会

さて本日は、第40回平野神社奉納神楽大会から達古袋神楽さんで 弁慶安宅の関です。

その前に、達古袋神楽さんの由来について定本より

「明治二年の火災で記録を失ったので資料はないが伝える所によれば、八幡神社は田村麻呂公の勧請といい、康平五年(一○六二)八月一五日再建の棟札もある。
八幡山常学院は、京都本山派の相模坊が、文明一○年(一四七八)開設し、古くから八幡神社の奉納神楽として法印神楽が舞われて来た。
なお弘化年代(一八四四)に神楽も盛んになり、明治以降には、胆沢地方、宮城県北、栗原郡、玉造郡等にも伝えられた。
明治以前は常学院が宮元となり指導に当ったが、以降の歴代師匠は、明治一一年小野寺伊三郎、明治二○年阿部徳太郎、明治二五年小岩勝蔵、明治三○年小岩利右エ門、小岩彦三郎、大正九年~昭和三八年まで阿部長治、以降阿部孝が指導に当り後継者の養成に当った。」

とあります。現在の代表は小岩恭一さんです。

胴取りは小岩弘征さんです。この日の銅の部で個人賞を受賞しました。

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義経が兄頼朝が発した追討の指令から逃れるため弁慶ともども都落ちする場面です。

「誰の讒言か知らねども、兄頼朝に従いて、一ノ谷から壇ノ浦までことごとく戦果をあげたれど、今や追われる身。
これが血を分けし兄弟の仕業かよう~」

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弁慶さんです。主君の義経とともに山伏姿に身をやつして、密かに北陸路を抜けて奥州へと行く道すがら、安宅の関で検分にあいます。

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関守の富樫左衛門です。

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関守の富樫左衛門尉泰家に義経主従と怪しまれ、疑いを晴らすため、東大寺建立の勧進帳を空読みします。
この日は関守の番卒も出演しておりました。

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疑いを晴らさんと義経を打ち付ける弁慶

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それを関守が押しとどめる。
数々の疑問はあるものの、山伏一行を義経主従と見破った富樫左衛門尉ですが、武士の情けで通すことに気めます。
山伏先達を武蔵坊弁慶と見破りながらも大法師と呼びかける心遣いに神楽の観衆も惜しみない拍手を送ります。

「彼も武士なら我も武士。ここで、判官殿に縄をかけるのは容易けれど、ここが武士の情けのかけどころ」

ここでちょっと薀蓄になりますが、この富樫のに関して地元石川県野々市市の「野々市町史」に次のような記述があるそうです。
なんと富樫泰家は平泉に来て義経主従と暮らしを共にしたということです。

「富樫左衛門尉泰家は、源頼朝の逮捕令に背き、)義経を安宅に通し野々市に帰って居たが、このこと頼朝の耳に達したので頼朝は、大に立憤し、泰家の守護職を解き同時に官をも剥いだので泰家野々市に安住すること出来ず嫡男家春に家を譲り薙髪し、道名を仏誓と号し名を重純と改め、義経の後を追い奥州路へと落ちて行き、義経の潜居せる陸奥国、藤原秀衡の許で、義経に会ったのである。義経、秀衡に請う手て食田を与えた。泰家此処に暫く留まり(土地の女を娶り、)一子庄九郎を遺して野々市に帰り後年歿した。法号を仏誓と称し没年は不明である」

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最後に残った弁慶は、主君義経に先ほどの打据えによって自害して詫びると申し出て、自らの刀を腹に当てるが、義経がそれを押しとどめ、弁慶までもここで死なれたら私は頼るものがいなくなる、共に奥州めざしてはくれぬかと諭します。

〽 無事に平泉に辿り着くまで汝にこの身を託すぞえ


無常感とともに人情を感じる場面です。

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動画でどうぞ。


テーマ:伝統芸能 - ジャンル:学問・文化・芸術

2017.10.26 |

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Author:祭りの追っかけ
祭・・・それは祈り、畏れ、そして縋り付くばかりの信仰、神人共生の歓びの象徴。さて、明日のエネルギーの糧を求めに彷徨おう。

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