大宮神楽 綾遊び @ 第七回三陸海の盆
さて本日は、第七回三陸海の盆のから大宮神楽の子供たちによる綾遊びです。
由来について
大宮神楽は昭和年代までは地名をとって和野神楽と称していた。
旧田野畑村の村社である大宮神社(大宮大権現)は田野畑村の羅賀地区に鎮座し、創建は延元2年(1337年)となっている。
別当の田野畑氏は元は羽黒派山伏の栄福院であり、代々山伏神楽を伝えてきた。
正月に二頭の権現頭を奉じて村内を祈祷して歩いたが、その際、舞立ちには舞立神楽と称して別当家で全演目を舞うということをしたということです。
ところで大宮神楽は、普代村の鵜鳥神楽と構成人員(神楽衆)がほぼ同じメンバーであるということです。
大宮神楽として活動する場合は大宮神社の権現様を奉じて、霞である田野畑村内の集落で神楽を演じる。一方、鵜鳥神楽として活動する場合は、鵜鳥神社の権現様を奉じて、霞である久慈市~釜石市の範囲を隔年で訪れているということです。
このことは、他の地方でも見られる「寄り合い神楽」の形であり、神楽が法印・神官によって行われていた頃からの影響といえるかもしれません。
この日のステージは、大宮神楽が指導している田野畑小学校の羅賀地区の子供たちによる神楽となりました。
ここにも学校統合の影響が表れています。統合前は羅賀小学校の学習の一環で児童が踊っていたということです。
先の大震災では、この羅賀地区では標高25mまで津波が到達し、地区内の家屋では全壊 99 戸、半壊 14 戸の被害だったということです。
ところで、和野神楽は黒森神楽から伝わったとありますが、本田安次著「山伏神楽・番楽」の「和野神楽 付記」にはこうあります。
「・・・黒森神楽では、中入狂言に、在来はなかった剣舞や手踊り等をも交えて演じているので、それらが目新しく感ぜられるのかもしれない。こうした工夫のことは黒森自身でも申していた」と、つまり和野神楽は古い形を残しているということか。
沿岸部は過疎化の上に震災被害による人口流出が続いていますが、高台移転による住宅建設もそちらこちらに見られるようにりました。
子供たちの笑顔いっぱいの熱演に未来が見える気がしました。
動画でどうぞ。
