薬莱神社三輪流神楽 「宮鎮楽」
さて本日は、薬莱神社三輪流神楽の篝火神楽から宮鎮(みやしずめ)です。
その前に、薬莱神社三輪流神楽の由来について書いていませんでしたので、とりあえず
「薬莱榊社春秋二回の祭典に奏すされる三輪流神楽は正しくは「三輪流両部習合神楽」とよばれるもので
法印神楽の系統に入りますが、宮城県内にあって同一、類似の神楽は存在しないので、貴重な文化財と言・われています。
起源は推古朝秦川勝が六十六番の仮貌をもって紫震殿の前で舞を奏し、これを三輪流と称したのに始まるといい、泰川勝の
遠裔である円乗坊教存は坂上田麻呂征夷の軍に従つて此の地(小野田)に至り、薬薬三社及び大宮・八王子五社の師官・別当となり伝えられたという。
最初は大宮明神社前にて行われた神事も明治以降には神仏分離令のために「薬莱神社三輪流神楽」と改称して引き継がれることとなったと。
この神楽は江戸時代までは、大宮明神社前で行なわれましたが、明治時代薬莱神社へ合祀されるに及んで、神楽もまた「薬莱神社三輪流神楽」と改めて現在に至っております。
明治41年に近くの諸社とともに薬莱神社に合祀されるまでは、大宮太神社によって三輪流神楽が斎行し伝承されてきたもので、現当主の祖へ円乗坊教存五十四世である大宮家の九代前の法印長宥なる人が、天保二年(1831)に編まれた台冊の「三輪流両部習合神楽秘抄」上、中、下、三巻が伝来しており、これに依ると、この神楽は貞和年(1345~50)以前にさかのぼれる記述があります。当時の奥州探題であった大崎家兼により薬茉神社に能面五面が奉納されたと伝えられ、慶長九年(1604)に火災があつたものの、その当時から整えられた古面17面(すべて能面)と獅子頭は現存し、秀作であり現在においても神楽に用いられます」
宮鎮ですが、これは思兼尊の神楽としています。
この演目は法印神楽では広く行われていて、その系譜を嗣ぐ南部神楽でも主に胆沢地方の神楽団体では現在も踊り継がれています。
その日の神楽上演に先立って、その場を祓い清めて神々を招請しせめんために舞うものとしています。
ですので、三輪流神楽でも宮鎮楽は思兼尊の舞としています。
神楽秘伝鈔には次の如し
「宮は至尊居所の称なり。鎮は安重鎮の義也。
ある書に曰く、古は貴賎の居所皆宮と称せしと・・・」
ゆっくりと四方を踏み鎮める舞ですが、明治以降の南部神楽では、この演目は荒々しい神となって、刀や験力で場を鎮める舞になっています。
この舞は祈祷舞なので神諷はありませんが、これに続く演目のために場を清め祓う感じが強く感じられます。
最後は太刀を持って御神楽で舞い納めます。
動画でどうぞ。
