川北神楽 曽我兄弟仇討ちの場 @ 第30回あやめ祭り神楽大会
さて、本日は第30回あやめ祭り神楽大会から曽我物語通し上演のトリです。川北神楽さんで曽我兄弟仇討ちの場です。
その前に川北神楽さんの由来について
「明治16年に、初代庭元佐藤福男が世話人となり、岩手県西磐井郡萩荘村達古袋神楽の佐藤春吉師匠を招き、部落の若者達に神楽の指導を行い、門出神楽を創設した。
大正初期、一迫町長崎高橋長右エ門師匠の指導を得、現在まで休むこともなく継続されて来た。
その後、昭和41年に一迫町民俗芸能無形文化財」の指定を受けたことを契機に川北神楽保存会と名を改め現在に至る。」
現在の代表は佐藤勝さんです。
曽我兄弟の仇討についておさらいです
所領争いのことで、工藤祐経は叔父・伊東祐親に恨みを抱いていた。安元2年10月、祐経は郎党の大見小藤太と八幡三郎に狩に出た祐親を待ち伏せさせた。2人の刺客が放った矢は一緒にいた祐親の嫡男・河津祐泰に当たり、祐泰は死ぬ。
祐泰の妻の満江御前とその子・一萬丸と箱王丸が残された。満江御前は曾我祐信と再婚。一萬丸と箱王丸は曾我の里で成長した。その後、父の仇を討つことを密かに心に図っていた。
そして、建久4年(1193年)5月、源頼朝が富士の裾野で巻狩を催すことを知り、本懐を遂げることを策謀する。
最初に仇敵工藤祐経が出て、富士の裾野の陣屋に幔幕を張り、駐屯する場面です。
父の仇討ちをせんと、松明をかざして頼朝の陣屋を探ろうとするが、折から雨が降りだし、松明の火も消えて行方を探すべもなくなります。
最早仇討ちもこれまでと、十郎五郎の兄弟ともに自刃の刃に手を掛けたその刹那、二人に近寄る上臈が一人
虎御前と名乗る上臈が、曽我兄弟の仇討を導くことになる
ところでこの虎御前ですが、曽我物語では十郎祐成の愛人と描かれていて、曽我兄弟が仇討ちを遂げて処刑された後、出家して仇討ちの話を伝える一役を担ったという説もある。
そして、数々の木戸を通過して、曽我兄弟の仇敵の寝所にたどり着く。
そこでは、父の仇の工藤祐経が酒宴の酒に酔って寝ていたが、正真正銘の仇討ちを遂げたい曽我兄弟は工藤祐経の酔いが覚めるのを待って仇討ちすることにした。
兄弟力を合わせて奮戦の末、工藤祐経を討ち取ります。
無事本懐を遂げた兄弟は涙ながらに父の菩提を弔いながら、千代の御神楽を舞うのでした。
動画でどうぞ。
